【私の音楽遍歴】

   千葉 修二(昭和28年経済・ヴァイオリン・指揮)

小学校に入る前、兄に連れられて大阪・天王寺公園の音楽堂で大阪市のブラスバンドをよく聴きました。ケテルビーの 「ペルシャの市場」やイワノヴィッチの「ドナウ川の漣」などを今でも覚えています。また、ピンポンとクリスマスのケーキ目当てに通っていた キリスト教会で賛美歌を歌い、お陰で唱歌だけは、いつも満点でした。昭和12年(1937)頃、大阪・朝日会館で初めてピアノの連弾(トルコ行進曲)を 聴き、強烈な印象を受けました。以後、戦前・戦中の朝日会館で諏訪根自子・草間(安川)和子・鰐淵賢舟などのリサイタルを聴いてクラシック音楽に 病み付きとなりました。

この音楽会詣では、第二次世界大戦後すぐに再開し、朝日会館・サンケイホール・宝塚大劇場などの会場を、胸をときめかせながら 回りました。ローゼンストック指揮の日本交響楽団・東京バレー団の「白鳥の湖」・クロイッアーのピアノなど。海外からの音楽家は、メニューイン・ モンブラン・コルトーに始まり、国内外の主要な音楽家の演奏会のほとんどを観・聴きしました。最初の頃の料金は今ほどではありませんが、 メニューィンのリサイタルが1,500円で2回となると、アルバイトの稼ぎでは厳しかった!(1ヵ月分で2,000円程)。

当時は音楽会シーズンが、大体春・秋に限定されていましたので、現在のように連日連夜という状況ではなく、従って、 それぞれの音楽会で受けた印象は何時までも鮮明に残り、名演奏については、約60年経った現在でも、昨日の事のように甦えって来ます。 当時ヨーロッパから、極東の端・日本までの遠さが、かえって有利に作用して、現在より良い演奏会が多かった(当たり外れが少ない)のは事実です。 特に、1956年から63年にかけ、4回にわたって公演されたイタリア・オペラの素晴らしさは、現在でも語り草になっていますが、 イタリアン・ベルカントの最後の豪華な舞台でした。さらに、当時のN響の伴奏は、今日を凌ぐほどの力量がありました。

1970年の大阪万国博覧会の時は特別で、春から秋にかけて合計50回近くのクラシック音楽会が行われました。幸い、 この頃には、会社でも多少勝手の効く身になっていましたし、何しろ目の前が会場のフェスティヴァル・ホールなので、6時半まで仕事をしても 悠々開演に間に合うと言う好条件に恵まれていましたから、それに助けられて、世界中から来日した音楽家の演奏のほとんどすべてを、連日の ように観・聴きしました。今では絶対に考えられない(勿論、全員が故人になってしまいましたが)、カラヤン・セル・バースタイン・ムラビンスキー などが指揮するオーケストラを、日替わりで聴き比べることが出来たり、オペラもドイツ・ローマ・ボリショイなど名だたる名演に接する 事が出来ました。

勿論、その後も、これと言う国内での音楽会は、ほとんど残らず聴いていますが、万博の経験に触発されて(当時、国内でのクラシック 用の音楽会場としては、フェスティヴァル・ホールと神奈川県民ホール位しかありませんでした)、そのうちに世界中の有名な音楽会場をすべて訪ね歩き、 その場所で実際に演奏を聴き、現地の聴衆の反応を肌で感じたいと言うのが、私達夫婦の願いとなりました。

この壮大な計画は、幸いにも現役時代から周囲の理解や日本航空の社員の方々のご協力もあって実行することが出来、 さらにリタイヤしてからは、インターネットの普及にも助けられて、私の望む日に・望む演奏会場で・望む演目のオペラやオーケストラを観・聴きする ことが出来ました。しかも、1日限り・1回限りではなく、数日間滞在して毎夜とマチネーまで、さらに年を換えてと、欲には限りがありません。 海外での主要なオペラ・コンサートは、約50会場(全ヨーロッパ・南北アメリカ)で85公演を観・聴きしたことになります。国内での演奏会は 回数にして約1,200回を超えます。

あまりの音楽への傾倒ぶりに、社内の友人から音楽評論の話(冗談!)もありましたが、私の音楽哲学は、「音楽は楽しむもの。 素晴らしい演奏には心から感動し、いかに有名なもの(料金の高い)でも駄目なものは駄目」と言うものですから、無料の切符を頂いて、或る場合には、 心ならぬことを言ったり・書いたりすることは邪道に思えたので、その様な恐ろしい立場に身を置こうとは全く考えませんでした。ただ、私と同じ様な 印象を持たれた方(例えば、音楽評論家・吉田秀和氏)の文章などに接すると、内心大変嬉しい気持ちに今でもなります。

と言って、海外での音楽会はすべて最高のものばかりではありません。この程度なら、今の日本でも聴けると言うものも結構あります。 しかし、そんな場合でも、取り巻く環境=聴衆・会場などで感心する事も多いのです。欧米の観衆が率直に感想を述べ合うことや、会場の音響効果、 それに現在では仕方の無い事かも知れませんが、オペラの引越し公演での安っぽい舞台装置など、日本では、まだまだと思う点も多くあります。 また、1980年代始め頃までは、海外の演奏家の初舞台は大阪であり、そのため初日には沢山の評論家達が東京からやって来ました。が、 高度経済成長に伴なって、「何でも東京一極化」が進んだのは残念な事です。

当時京大に在学していた音楽好きの兄にすすめられ、昭和23年(1948)ヴァイオリンを始め、途切れ途切れで二人の先生に合計 5年程習いましたが、結局、ものにならず、結婚後は妻・初枝(大阪音大ピアノ科卒)の伴奏で、手当たり次第に曲(ウィーンの楽譜店などで買ってきた) に挑戦。2人とも音楽好きで、合奏を始めると止まらない有り様でしたが、技量の点では、果たして進歩したかどうかは疑問?。70歳を超えると、 お腹に力が入らず、長年のヴァイオリンとも疎遠になってしまいました。が、去年(2002)春、何回も計画しながら果たせなかったヴァイオリンの 故郷・イタリアのクレモナを訪ね、工房で出来上がったばかりのヴァイオリンを試し弾きして、時すでに遅しと残念な気持ちになりました。

自慢ついでに、私が行った会場名を列記しておきます。もう、残す所は、あまりありませんが、小澤征爾=ウィーン・オペラと、 生きている内に間に合えば、再建中のミラノ・新スカラ座です。(2004年12月予定)

☆フランス= パリ:ガルニエ宮(旧オペラ座)、バスチーュ・オペラ、
  シャンゼリゼ劇場、サル・プレイエル、シャトレー劇場。
 ☆イタリア= ミラノ:スカラ座、 ヴェニス:フェニーチェ劇場(焼失前) 。
  フィレンツエ:五月祭音楽会。トリノ:レッジオ・オペラ。
  ローマ:オペラ座、サンタ・チェチリア音楽院。ヴェローナ音楽祭:アレーナ・オペラ。
  ナポリ:サン・カルロ劇場。
 ☆オーストリア= ウィーン:国立オペラ、フォルクス・オパー、
  ムジーク・フェライン・ザール(楽友協会ホール)、コンツェルト・ハウス、ホフブルグ宮。
  ザルツブルグ:音楽祭・祝祭劇場。
  リンツ:ブルックナー・ハウス。
  ブレゲンツ:音楽祭、湖上オペラ。
 ☆イギリス= ロンドン:ロイヤル・フェスティヴァルホール、ロイヤル・オペラハウス、バービカン・ホール。
 ☆ド イ ツ= ベルリン:フィルハーモニー、国立オペラ、ドイツ・オペラ。
  ドレスデン:ゼンパー・オパー。ハンブルグ:州立オペラ。ライプチッヒ:ゲバントハウス。
 ☆ロ シ ア= サンクトペテルブルク:プーシキン記念ドラマ劇場、マールイ・オペラ劇場。
  モスクワ:ボリショイ劇場、チャイコフスキー・ホール、コンセルヴァトワール・ホール。
 ☆アメリカ= ニューヨーク:メトロポリタン・オペラ、エヴリー・フイッシャーホール。
  ボストン:シンフォニー・ホール。
 ☆ス イ ス= ルッエルン音楽祭。
 ☆トルコ= イスタンブール音楽祭、
 ☆オランダ= アムステルダム:コンツエルトヘボー。
 ☆ハンガリー= ブダペスト:国立オペラ。
 ☆チェコ= プラハ:国民劇場、スメタナ・ホール。
 ☆カナダ= モントリオール・オペラ。
 ☆オーストラリア= シドニー・オペラ、
 ☆ブラジル= リオデジャネイロ:市立劇場。
 ☆アルゼンチン= ブエノスアイレス:コロン劇場、
 ★ 見学だけ = サンフランシスコ・オペラ。シカゴ:オーケストラ・ホール。
  ロスアンジェル:ハリウッド・ボウル。ミュンヘン:レジデンツ劇場。シチリア:パルレモ・マッシモ劇場。

神大オケの歴史を書く上で、歴史の羅列だけでは面白くないだろうと、私の勝手な思いつきの文章を挟み込むべく書くうちに、 沢山の雑文が出来てしまいました。お目障りかもしれませんが、下手なアンコールとしてお読み頂ければ幸甚です。

【閑話休題】= 私の無責任・雑感【指揮者】

  1. 確か、岩城宏之氏だったと思いますが、現在(1995年頃)日本に指揮者と言われる(或いは自称)人達が約二千数百人‐‐‐と書かれていたのを見た 記憶があります。どの段階から、どの段階までを数えられたのか分かりませんが、その数の多さに驚いたものです。もっとも、大部分は合唱などの 指揮者なのでしょうが。とにかく、指揮をしてみたい日本人の数は、恐らく世界有数でしょう。テレビで見たカラヤンの雄姿が、この現象を生み出し た事は間違いありません。決して悪い事ではありませんが、そこに行き着くまでの苦労・勉強・知識・経験などを考えずに、単純に、格好良さだけ を求めているのでは頂けません。大学オケの客演指揮者選びも、知名度が低くても、音楽を愛し、オケを育てて頂ける、本物の指揮者を選ぶことが 大切だと思います。
  2. 私の指揮法の習得については、先にも書きましたが、私が読んだ指揮法の本の中には、練習方法として『毎朝、2・3・4などの拍子別に、20分間 腕を 振る事』とか『毎日、最低七百回指揮の要領で腕を振る事』などと書かれていて、真剣に練習したものです。岩城氏によると、ベートーヴェンの 「運命」では、1日・9回の練習での腕振りは、合計2万回を越すとの数字を出しておられます。指揮者は肉体労働者でもあるのです。そのため氏は、 頚椎靭帯骨化症(鞭打ち症?)になられました。
  3. カラヤンの指揮ぶりにウットリされた方も多いのですが、その指揮は、両足をしっかり踏みしめて動かさず、上半身を少し前傾の姿勢で、 目を閉じたままの美しい指揮でした。(練習でミスした際に、いつも閉じている目が開けられて見つめられる時程、恐ろしい事は無かったとのメンバー の証言もあります)が、この姿勢を長期間やっていたため、晩年には腰を痛め、二度の手術をし、最後の頃には、指揮台までマネージャーに支えて もらわないと歩けない状態になっていました。それでも、ひとたび指揮台に立つと、その両手から紡ぎ出される音楽は、何とも若々しく、 みずみずしいものでした。
  4. 同じ巨匠の指揮でもバースタインの指揮ぶりは、カラヤンとは対照的で、若い時から「指揮台の上で飛び上がる」非常に動的なのが特徴でした。 始めの頃は(音楽的には素晴らしいのですが)、その姿がやや嫌味に思えて、必ずしも好きではありませんでした。が、或る時(海外の音楽会で)真正面から その指揮ぶりを見て、初めてその真意を知りました。ウィーン・フイルとの演奏会でしたが、その入念な指揮には、目を見張りました。 下手な指揮者のような無駄なアクションはありませんが、身体の中にある音楽をオーケストラに伝えるために、彼の十本の指では足りない場面が あるのです。そこで、ここぞと言う時に、あの指揮台上の「飛び上がり」が出てくるのでした。
     バースタインは、長年ニューヨーク・フイルで指揮・作曲をして、大変な楽才ぶりを発揮していましたが、何時の頃からか、ウィーンに傾倒する ようになりました。その理由がよく分からなかったので、友人の朝日新聞の音楽担当記者に尋ねました。「クラシックの本場に対するあこがれだろう」 との返事でした。確かに、同じクラシック音楽なのに、ヨーロッパとアメリカでは(昔は特に!。現在では楽器が良くなったり、楽団員の世界的交流が 激しくなったので、その差が少なくなりましたが)、演奏スタイルに明らかな違いがあります。機能的なアメリカ流に対して音楽の流れそのものを大切 にするヨーロッパ。恐らく、バースタインはこんな所に気づいたのでしょう。その後、彼はニューヨーク・フイルを辞して、活動の拠点をヨーロッパ に移しました。
  5. カラヤン・バースタインを書くと、小澤征爾にふれない訳には行きません。私は彼が最初にN響を振った時からのファンです。 当時は確かに若さ 故の行動 もありましたが、日本の音楽界が何故こんな優秀な才能を受け入れる事が出来ないのかと失望しました。その後の活躍は大多数の方々はご存知 だと思います。25年以上常任として指揮をしてきたボストン響をやめてウィーンに行くと聞き、それまで来日の時には欠かさず演奏会を聴いてきま したが、やはりホームグランドでの演奏会をと考え、1999年秋の定期演奏会に出かけました。初めてのボストンに着くと、町のあちこちに小澤氏の 顔写真が貼られているのを見て、彼が本当にボストン市民に愛されて仕事を続けていた事を知りました。定演を二度聴きましたが、聴衆の熱烈な拍手に も驚きました。また、定演の間の日の午前中に「ゲネプロ」の形で、安い料金で解説入りの音楽会を開くのです。このような事前の勉強会はボストンに 限らず、欧米の音楽会場では、当日の演奏会前とか、オペラ上演の何日か前に、割合多く行われています。[うどん]などを掻き込み駆けつける日本との 落差の大きさを感じさせられます。
  6. 最近の指揮者には、暗譜で指揮する人が多くなりましたが、以前は、極度の近視のため暗譜が必要だったトスカニーニ以外はいなかったようです。 確かに、素人だった私でも猛烈に勉強した3曲ばかりは、今でも大体を覚えていますが、何曲ものレパートリーを持ち、ごまかしの利かないプロ指揮者 にとっては大変な事でしょう。一瞬見ただけでカメラで撮ったように記憶出来ると言う人もいますが、小澤征爾氏などの努力(毎朝4時間の楽譜読み)は 並大抵の事ではないでしょう。ブルーノー・ワルターが質問された時「全部覚えていると言えばウソになりますし、覚えていないと言うのもウソにな ります」と答えています。初めて暗譜で指揮をしたのはメンデルスゾーンで、オペラの暗譜指揮はハンス・フォン・ビュローだそうです。有名な ピアニスト・リヒテルが、何回目かの来日リサイタルで、楽譜を見て弾いたのを覚えています。初めての経験でしたが、いまだに、それが良心的な 行為であったのかどうか、私には分りません。
  7. カラヤンの話ばかりになりますが、ザルツブルグ音楽祭で彼が指揮するオペラを見て、本当に感心しました。楽譜を見ないのは当然としても、 長いオペラを歌手と一緒に歌っているのです。どのオペラ歌手も「カラヤンが指揮すると、とても歌いやすい」「彼は自分と一緒にブレスしてくれる」 と言っているのは、こんな所にコツがあることを知りました。が、誰にでも真似出来る事ではありません。この事を証言している記事を読みました。 証言者はコンサート・マスターを務めていた日本人の安永 徹氏です。
     『カラヤンの音楽能力は抜群だった。演奏する曲の隅々まで頭に入っている。オペラのリハーサルなどで、やり直す時。カラヤンはスコアを見ないで、 必要な所から間髪を入れず歌詞を指揮台から舞台に向けて原語で歌ってみせる。楽員も歌手達も心服せざるを得ない。楽員が間違った時にも 「判っているぞ」と言うシグナルは送っても奏者の面子は傷つけない。だから、指揮者に対して残る気持ちは、 思いやりに対する感謝の気持ちである』
       = 中野 雄著「ウィーン・フィル音と響きの秘密」より。
     晩年に、特に経済上のこと(メンバーの問題もありましたが)でオーケストラとの確執が生じたのは残念でしたが、『帝王』と呼ばれた彼も人間だった 証拠と、私は理解しています。暗譜に関しては、オーケストラの団員側からこんな言葉も聞かれます。「暗譜・暗譜と偉そうに言うけれども、 音符を形として記憶しているだけなら、楽譜を前にしてする指揮も同じことだ。一生懸命、譜面を思い出そうとして、目が虚空をさまようような 指揮をしたり、メロディとリズムだけを記憶していて、内声部の動きや和声進行を忘れている指揮者が結構多い」。N響などのコンサート・ マスター達の正直な感想です。
  8. ついでに(?)もう一人。神戸大学のすぐ下に長年住んでおられ、学生時代には、神大オケにエキストラとして来て頂き、私も個人的にお宅にお邪魔 したことのある日本で最長老・指揮者であった朝比奈 隆氏のことも忘れてはならないと思います。氏は音楽学校を出られてはいませんが、京大で メッテル氏にヴァイオリンを習われ、若かりし頃に上海や満州(現中国東北部)の新京などで、革命で亡命してきた優秀な白系ロシア人の音楽集団の オーケストラでタクトをとられ、理論だけではなく、身体でヨーロッパ音楽を体得されたと言う経歴の持ち主でした(一時期、音大卒だけを重視する 東京のオケが彼の指揮に拒否反応を起こしたこともありました)。私は氏が関西交響楽団(大フイルの前身)を設立された当時からのファンでしたが、 晩年はブルックナー演奏の神様のような扱いで、あまり若き頃の氏の颯爽たる指揮ぶりや、ブルックナー以外の名演奏を知る人は少なくなっていました。 私にとって忘れられない曲には、イベール=組曲「寄港地」やストラヴィンスキー=バレー曲「ペトリューシカ」の初演などがあります。 それにチャイコフスキー=第5番・第2楽章の8分の12拍子の華麗な棒にウットリとしたものです。
  9. 満場の拍手を浴びて登場するオーケストラの指揮者。これほど格好良い姿は無いでしょう。私には登場して来る指揮者の歩き方で、その日の出来の 良否が大体分かるように思います。1984年10月18日、シンフォニーホールでのベルリン・フィルの演奏会。登場するカラヤンの歩き方が、今まさ に演奏しようとするR・シュトラウスの交響詩【ドン・ファン】の雰囲気とは明らかに違うのです。隣席の妻に「間違っている」とささやいた途端、 彼が振り下ろした指揮棒はラヴェル?のそれでした。さすが、ベルリン・フィルのメンバー達。コンサート・マスターを見て、一斉に最初のフォルテシモ の音を出しました。が、カラヤンは3小節目でピタッと演奏を止めました。普通なら、多少ガタガタとするものですが、この止まり方も見事でした。 殆どの聴衆は気が付かなかったと思います。コンサートマスターと一言、言葉を交わしたカラヤンは、何事も無かったように始めから演奏を しなおしました。勿論、演奏はいつもと変わらない出来栄えでした。
     私は現役の指揮者に舞台に登場する時には、「曲そのものになっていなければならない」と言ったことがありますが、この忠告は余り守られていな いように思います。たまたま、尊敬する音楽評論家・吉田秀和氏が2003年2月24日の朝日新聞夕刊に、まったく同じ事を書かれていたので再現して おきます。『日本のオーケストラの楽員たちがステージを出入りする光景を見ていると、散歩型のゆったりした歩く動作とプログラムに載っている音楽 との間にはかなり大きな隙間があると言う感じがいつもする。ベルリン・フィルの楽員たちは、音楽が鳴る前から、すでに彼等自身の体の中で音楽が 躍動していた。音楽は音にならない音が形をとったと言うだけである」。ちなみに私が聴いた交響詩【ドン・ファン】の中で、最高のものは、 1959年のカラヤン=ウィーン・フィルの演奏でした。
  10. これ以外でも、数多くの優れた指揮者に出会いました。もうほとんどの方がご存じない、J・マルチノンが昭和二十八年(1953)N響を指揮した 【ストラヴィンスキーの夕べ】を超える演奏にはその後お目にかかりません。ミュンシュ・クリュイタンス・ゲルギエフ。凄かった指揮者は沢山いま したが、作曲家が自作を演奏して良いと思ったものはありません。ストラヴィンスキー・ヒンデミット・コープランド(まだましの方)。 恐らく自作だけに必要以上の思い込みがあり過ぎるからでしょう。
  11. 大学オケの使う指揮台は、単純な台に過ぎませんが、プロの演奏会の指揮台には、何時の頃からか(大阪・国際フェスティヴァルが最初?、 或いはN響のクルト・ヴェス?)ロープが張られたり、手摺がつくようになりました。何故だかお分かりですか。それは指揮者の転落防止用のためです。 日本では、若かりし日の山田一雄氏が突然舞台上から消え去った(転落した)話は有名でしたが、ヨーロッパでも時々あったそうです。 そんな事から日本でも出現したのでしょうが、楽章の途中に、手摺につかまっていた何人かの指揮者がありました。

【閑話休題】= 私の無責任・雑感【演奏会場】

  1. ウィーン・フイルハーモニー・オーケストラのムジーク・フェライン・ザールでの定期演奏会は、ほとんどすべてが親から代々続く定期会員で 占められ、旅行者が、ここに入り込むのは不可能に近いと言われ、事実そうなのです。(入り切れないのか、舞台上の弦楽器群の後ろまでギッシリ満員)。 しかし、そこに、私は入り込む事が出来たのです。 日本にいる時から、ありとあらゆる方法を使いましたが、どれも上手く行かず、顔見知りとなった 宿泊先の有名ホテルのコンシェルジュに依頼しました。何故なら時たま、会員が売りに出す切符があるとの情報を知ったからです。顔を合わす度に 督促する私に、彼は大丈夫と言ってくれました。ウィーン・フイルの定期演奏会は、その前日に「ゲネプロ」と称してコンツエルト・ハウスで同じ曲目 の演奏会をやリます。勿論、この切符はとっくに入手済みで、割合大きいホールでの、素晴らしい演奏でした。が、私の耳には少し音が硬いとの印象 が残りました。夕方、ホテルに帰ると、彼氏が「定演」の切符を誇らしげに差し出しました。値段は通常の何倍かでしたが、まさに奇跡としか言い様 の無い瞬間でした。席は2階の中央席で、何と目の前にホルシュタイン(ウィーン国立オペラ指揮者。頭のデカい、日本のN響でもお馴染み)がいる ではありませんか。演奏は前日にもまして素晴らしく、それに音がズット柔らかなのです。
     当時はまだ改装前のガタガタの椅子でしたが、この時、この会場が世界一である所以を痛感しました。言葉では到底表現出来ませんが、 例えばピアニッシモの音は、壁から反射してくるのではなく、スーット壁に吸い込まれて消える‐‐そんな感じでした。また、コントラ・バスを 後1列に並べるのも、このホールの特性を考えたものだと思います。演奏会が終わると、客席後部の窓から夕方の太陽の光が差し込んでホール全体 を照らし、黄金色に飾られた室内の輝きを一層高めました。
  2. 世界で最高のオペラ座は、ウィーン国立歌劇場とミラノ・スカラ座と決まっていますが、第3番目のオペラ座については意見が分かれます。 ロンドンのロイヤル・オペラハウスを推す人とニューヨーク・メトロポリタン・オペラを推す人に分かれます。最近はオケの音が素晴らしくなり、 音楽的にはロンドンの方が上だとは思いますが、オペラ座としての座付き歌手(例えばプラシド・ドミンゴ)や施設、それに、アメリカ流かもしれません が常任指揮者のレヴァインの統率力を見ると、私はメトロポリタン・オペラを推します。
     最近、日本でもオペラに字幕が付くようになりました。舞台の両側や上部にあって、外国語の判らない私などには便利ですが、反面、字幕を読んで いるとオペラそのものに集中出来ない様に思えます。その点、メトロポリタン・オペラでは、英語の歌詞が2行づつ、自分の前席の背もたれのトップに 出ますから、大変便利ですし、舞台を見る邪魔にもなりません。演目が多く、舞台装置も豪華(豪華でなければオペラではない!)。 毎年でも行きたいところです。(それに、料金も安い!。最高席で160ドル)。テロ以来怖気がついたわけではありませんが、空港のセキュリティが 厳しい事などもあり、目下敬遠しています。字幕での変わった体験としてはカナダ・モントリオールのオペラ座では、英・仏2カ国語の字幕が 付いているので、大変便利でした。
     ウィーンへは小澤征爾が指揮している間に(2002年秋から)何回か行くつもりですが、あの歌劇場の音楽監督は大変で、指揮者とオーケストラ の感性が合わないと、すぐに交代です。最も長く続いたカラヤンでも8年間。その他は2・3年で交代しています。小澤氏の成否は、これからボストン 響と同じ様な関係が構築出来るかどうかに掛かっています(定演などの評判はとても良いのですが)。ミラノのスカラ座は目下(2003年現在)建て替えら れています。戦後すぐに再建された建物は、音も良く、舞台も広かったのですが、設備が古いままなのが問題でした。例えば、 バルコン席には裏側に広くて立派なコート・キャビネットがあるのに、男子便所に手洗いが無かったのです!。
  3. 第二次大戦後初めての海外からのオペラ公演は、東京・帝国劇場でのドイツ・オペラだったと思います。当時は大変な人気でした。が、 1988年以後、長らくドイツ・オペラとご無沙汰していたので、最近の情勢を探りに、99年春、2週間ベルリンに滞在して、国立オペラ (ワグナー=リング公演)、ドイツ・オペラ、ハンブルグ・オペラ、オーケストラはベルリン・フイル、ドレスデン・フイルなどを観・聴きしてきました。 ワグナーのリングを通しで観るのは初めてで、バレンボイムの指揮する国立オケは素晴らしい迫力のある音を聴かせてくれましたし、 オペラの出来も悪くは無かったのですが、最近のドイツ人の好みか、抽象的な現代風の舞台装置には納得の行かないものを感じました。 さらに、ドイツ・オペラ座の方は、水準的に大分落ちてしまったとの印象でした。
  4. 世界最高の演奏会場は、ウィーンのムジーク・フェラインと書きましたが、その他にも印象に残る良い会場はいくらでもあります。 ベルリンの壁が崩壊し、米ロの冷戦構造が変革を遂げる僅か2カ月前(1989)、大阪・朝日放送のシンフォニーホールのご好意で訪れたライプチッヒの ゲバントハウス・ホールは、事前に予備知識が無かったためもあり、その素晴らしさに驚きました。それまで来日したゲバントハウス・オーケストラは 8回聴いていました。演奏は一流ですが、音の響きがややドライだと感じ、これが東欧の音かなと思っていました。しかし、本拠地で聴いた音は、 実に伸びやかで艶があり、今までの印象を覆すものでした。やはり、「本場で聴かないと駄目だ」と改めて思いました。勿論この時はシンフォニー ホールさんのお陰もあって、総監督のマネージャー女史が、「ここがこのホールで一番音の良い私の定席だ」と言う所に案内して頂いたものですから、 尚更音が良かったのだと思います。
     その時会った指揮者のクルト・マズア氏は二カ月後に起こったライプチッヒの改革の先頭に立ち、暴力を戒めながら見事平和裏に民主革命を成し遂げ、 その年の11月末には楽団と共に来日しました。表紙の写真がその時の感激の再会の場面です。その後、市長にとの声もありましたが、 彼は政治より音楽を選んで、ニューヨーク・フィルの常任指揮者となり(2003年まで)ました。
  5. 大阪のシンフォニー・ホールも大変良いホールです。日本で初めて残響2秒を達成し、その後建てられた各地の数多くのホールのお手本になりました。 私個人の評価でも世界で5指に入る位の感じがします。ただ、前後の奥行きが、もう少しあれば、もっと素晴らしかった筈ですが、敷地と建設当時の 容積率の関係で出来なかったことが惜しまれます。ベルリン・フイルなどがフォルテシモを出すと、音がホール全体にギッシリ詰まってしまって、 余裕が無い様な感じがします。小澤征爾がボストン響とベルリオーズのレクイエムを演奏した時、彼は最初、ホールがその音量を受け付けるかどうか 心配していたようでした(ボストンのホールは2倍近い容積があります)。が、大丈夫でした。勿論、演奏も素晴らしい出来でした!。 しかし、音響の良いホールは同時に大変怖いホールなのです。シンフォニー・ホールでも、ピアニストのペダルの使い方の良し悪しで印象が変わります。 下手な演奏者のアラが目立つのも良いホールの特徴なのです。神大オケにも、時々は使って欲しいホールです(経費がネックなのでしょうが)。
  6. どの国のオペラ座に行っても感じる事ですが、オーケストラの音が身体全体を包み込んでくれるような感じを受けます。ボリショイ然り、 メトロポリタン然り、ロイヤルオペラ・スカラ・ウィーン。数えれば切りがありません。1998年滋賀県・大津に完成した「びわ湖ホール」は素晴ら しいホールですが、現在までの私の評価は、残念ながら世界に比する所まで到達していません。
     ヨーロッパでも、良い所ばかりでなく、湖上オペラで売り出したブレゲンツ音楽祭は、ホールはまずまずですが、オペラが屋外の湖上で行なわれる ため、「カルメン」には山賊ではなく、海賊が登場したのには面食らいました。オケもアンプを通したハイな音で、終幕に花火が上がったりして、 音楽会と言うより避暑地のイヴェントでした。同じ野外オペラでも、ヴェローナのローマ時代の円形劇場を使ったオペラは、イタリアン・ベルカント の名残りを思わせる本格的なものでした。[トーランドット]の夜には背景と同じ様に満月がかかり、[リゴレット]の夜には、やや雨模様で遠雷が とどろいたりして、自然の舞台効果も抜群でした。[ナブッコ]のユダヤ人の捕虜達の合唱は、イタリアの「第2の国歌」と言われているだけあって 素晴らしいものでした。オペラでは普通考えられない、合唱のアンコールが行われました。ただ、これからお出でになる方のために。夏とは言え、 夜はしんしんと冷えてきます。私も2日目からは、厚着とホッカイロで寒さを凌ぎました。
  7. 開演ベルも昔より改善されて、余り耳障りなものはなくなりましたが、現在では携帯電話使用についての注意の放送が取って代わりました。 機器が改善されたり、ホールが対策をとったりして、今後はこれも少なくなると思いますが‐‐。海外の演奏会場では、以前からベルの音も小さく、 休憩時間も決まっているので、ほとんどアナウンスがありません。それなのに、2000年秋のメトロポリタン・オペラで、何と前年まで無かった アナウンスがありました。「上演中は携帯電話の電源をお切りください!」。
  8. ウィーンのムジーク・フエラインの一夜。安い入場料につられて入って聞かされたのが「音楽芸術専門学校・指揮科卒業演奏会」。 トーンキュンストラ響を4人の学生が指揮し、そのうちの1人が交響詩「ドン・ファン」を振ったのです。この曲は、カラヤン=ウィーン・フイルの 名演が耳に残っていますし、スコアも読んだ事があり、期待していましたが、何とメタメタ状態の指揮ぶりにプロのオーケストラも何回も停止寸前。 父兄の万雷の拍手で終わり、まるで学芸会。音楽の都ウィーンでこんな事があって良いのかと思いました。私は演奏中、色々の席に座って、 改めて、このホールの持つ真価を知る事が出来ました。

【閑話休題】= 私の無責任・音楽雑記【聴衆】

  1. 日本では当然のように聴衆はアンコールを要求します。が、海外ではオペラ・バレーのカーテンコールはありますが、オーケストラがアンコール 演奏をする事は稀なケースだと思います。これだけ世界中を聴き回っても、アンコールを聴いた記憶はあまりありません。特に、常任でない指揮者が 振る定期演奏会では、絶対と言って良い程ありません。大曲で終わった後は、それで十分なのでしょう。すぐに皆がスタンディング・オーヴェーション して終わりです。
     アンコールを求める事が悪いとは思いませんが、初来日の楽団の初日などで、何時までも鳴り止まない拍手に、舞台上で「どうすれば良いのか」 と戸惑っているメンバーを見て、気の毒に思う事もあります。絶対にやらないと思われていたカラヤンも、初めの頃にはアンコールをしました。 私の記憶でも、少なくともワグナー=「名歌手」第一幕への前奏曲とシュトラウス=ポルカ「雷鳴と稲妻」の名演奏を聞きました。また、日本に呼ぶ際 に切符の売れ行きを気にして、所謂『名曲』のプログラムを組む事が多いのですが、そのため折角のお国柄が発揮されず、癪に障って要求した何曲か のアンコールがとても素晴らしかったバルセロナ市立管弦楽団や初回のリトアニア交響楽団などもありました。神大オケも大曲を演奏した後は (最初から予定していなければ)、アンコール曲はやらなくても良いと思います。しかるべき頃合を見て、コンサートマスターが引き上げればよいのです。 そうでなければ、折角の名演奏に瑕がついて、間延びしてしまいます。
  2. 30年前頃までは、「日本人は拍手しない」と言われていました。現在では、そんな事はありませんが、逆に、ほめるに値しない演奏でも 「ブラボー!」を叫ぶ観客がいますが、高い切符に対して「ベラボー!」と叫んで欲しいと思うこともあります。戦後すぐの話ですが、 指揮者のローゼンストックがオペラの最終幕の指揮台に立った時に、拍手が無かったので、怒って引っ込んでしまった事件がありました。 当時の我々は、そんな習慣がヨーロッパにあるとは知らず、悪気があった訳ではなかったのですが、彼の自尊心を傷つけたようでした。
     現在では、オペラ・バレーの各幕ごとに拍手していますが、本来は最初と最終幕だけでもよいようです。それは指揮者の拍手に対する態度を 見ていると、国籍(やや大げさですが)によって違いがあります。ロシアでは、途中の幕の拍手に対して指揮者はまったく反応しません。 しかし、最終幕の前にはオーケストラ全員を立たせて鄭重に礼をする習慣が残っています。また、演奏が終わった最初の拍手は作曲家に、 2番目はオーケストラに、3番目が指揮者に対するものだと教わった事があります。今になれば、そんな面倒な事は考えずに、 良いと思えば拍手すればよいのですが。
  3. 拍手をよくするようになったことは良いことですが、逆に、静かに余韻を残して終わった曲でも、まだ指揮者が完全に棒を下ろさないうちに、 拍手をする輩(やから)がいます。素晴らしい演奏であればあるほど、そんなに待ち受けた様に拍手が出来る訳がありません。場合によっては、 その余韻を十分楽しみたいと思うのですが。また、特にバレーの場合、まだ踊ってもいない主役が舞台に登場しただけで拍手する輩がいます。 宝塚歌劇でもあるまいのに!と思うのです。実際、その主役が踊りでミスをした事があります。終わってからの評価こそが大切なことを、 何時の間にか忘れてしまった結果です。
  4. 同じ様に、クラシックの音楽会が「ハレの日」であった頃は、必ず正装(?)して出かけたものです。現在のようになったのは、クラシックの音楽会 に行くことが特別な事でなくなったためでもありますが、こんな「禁断の木の実」を始めて食べたのは、イギリスでした。紳士の国とばかり思って いたロンドンでヒッピーまがいの服装をした観客の光景に初めて出会った時には驚きましたが、今では当たり前になりました。が、たまにはメリハリ をつける意味で、簡略正装位の日があっても良いかなと思ったりしています。
  5. 日本人は知人宅を訪問する際に、花束などを持って行かないのに、どうして、演奏会に花束がつき物なのでしょうか。確かに、彩りを添える効果 はありますが、それも程々が良いでしょう。一時はアナウンス付きで続く何団体からもの花束に、全く興をそがれた事もあります。遠来の演奏家に 渡す場合は許されるとしても、身内のやり取りは感心しません。神大オケの場合も、客演の指揮者や身内でも特別な方に渡す事は反対しませんが、 まるで学芸会のような光景は見たくありません。頂戴する花束があれば、事前に舞台の前に飾る(大阪国際フェスティヴァルのように)方がずーっと スマートできれいだと思います。プロが貰った花束は、荷物になるので、ポイ捨ての運命になるのも多いとのことです。花束で今まで一番感心したのは、 ミラノ・スカラ座でオペラが終わると(恐らく花束請負業者が)、舞台に最も近い上階のバルコン席から、雨のように花束が落とされた場面です。 カーテンコールに出て来た歌手達が、その直撃を受けないよう逃げ回るのも面白い見ものでした(それも毎回とは限りません)。
  6. ついこの間まで、音楽会に行くと必ずと言ってよい程、名前は知らないが、顔見知りの人達が相当数いたものです。お互いに言葉を交わす事も無く、 しかし、おたがいの存在を確かめ合っていた様にも思えます。顔見知りが少しづつ減ってくるのは、年齢の故もあり、仕方のない事ですが、 激減した最大の原因は阪神大震災にありました。
     過去の常連客の中で印象に残るのは、いつもフェスティヴァルの2階の最後尾の真中の席(ここは安いのに音響効果がとても良い場所)でお会いした、 須磨在住?の元子爵家の3男で音楽評論家であった通称「藤田男爵」です。元華族に関わらず、ボロのような帽子と背広に、知らない人には単なる奇人 に映ったと思います。事実「蛾を食べる」奇人でもありました。いつも会釈を交わした間柄でしたが、ズーット前に故人になられました。
     海外では異国人と言うこともあるのか知れませんが、お隣さんと話をする機会が多いように思えます。日本では、見知らぬ老人(老人でなくても)に 話し掛けられるのは迷惑と考えている(或いは用心している)人がほとんど全部の様に思われますが、イタリア・トリノのオペラ座で「アイーダ」の テナーの音程が悪くて、猛烈なブーイングを初めて経験しました。周りの人は「日本から来て気の毒に」と慰めてくれましたが、私にとっては誠に 貴重な経験。昔見たイタリア・オペラの日本公演の話をすると、皆が周りに寄ってきて、「この日本人は、我々も名前しか知らないイタリアの大歌手 (モナコ・シミオナート・ティバルディなど)を聴いたと言っている」と質問攻めと感嘆の声。「アイーダ」を観るならヴェローナへ行けとの忠告まで してくれました。そのうちアリアの一節を歌う観客まで現れて、一時間半に及ぶ大ブーイングのごたごたも、当方にとっては、 実に楽しい時間でした。
     ミラノ・スカラ座で長らく禁断であった「椿姫」上演に駆けつけた時は、物凄いお金持ちの老貴婦人と同じバルコン席でした。 フランス語が出来ると判って、東京で勤務している長男の事、パリにいる娘さんの事、「ミキモト真珠」の話など、話題に困りませんでした。 ただ、今回の「椿姫」は既に3回観たと言われた時には、脱帽しました。ヨーロッパでは、この様なお金持ちが演奏会場の大口寄付者と なって運営されている事が多いのです。当日は、小澤征爾が「スペードの女王」を振りましたが、「名前は良く知らないが、 あの日本人指揮者は良いね」との批評でした。早速、翌日、オペラ開演までのお昼間、彼女の住むコモ湖畔を尋ねました。

【閑話休題】= 私の無責任・音楽雑記【契約】

イタリア・フィレンツェの五月祭で知り合ったオーケストラ・メンバーのお宅にお邪魔して伺った話。弦のトップの方でしたが、 オケとの契約の仕方に関する話になり、「先ず提示するのはギャラの事ではなく、1年間に、いつ頃・何日間の休みが取れるか」の問題だと聞き 驚きました。理由は、自分の勉強・仲間とのアンサンブル・適当なメンバーを集めての外国への出稼ぎ・休養などのためだそうです。 お宅の前に他人の車が駐車していて、僅かな隙間に、バンバーを前後にゴツンゴツンとぶっつけての、ラテン型駐車方式も初めて体験しました。

【閑話休題】= 私の無責任・音楽雑記【曲名】

オーケストラ曲では、殆ど問題になりませんが、オペラの題名が日本で通常使われているものと違う場合、作曲者から類推して 自分で納得している段階では、何ら不便はありませんが、一端、他人に説明しようとすると、四苦八苦することになります。 例えばチャイコフスキー=「スペードの女王」ですが、知人のフランス人に「何を観てきたの」と尋ねられた時、ハタと困りました。 皆さんはご存知ですか?。『Pikovaya Dama』です。

1990年前半のロシアでは、まだ原語でオペラを歌うことが出来ず、「マダム・バタフライ」の題名は「ちょうちょうさん」 (ЧИО‐ЧИО‐САН)で、オーチン・ハラショウなどと歌われて、肝をつぶしました。曲名ではありませんが、モスクワのボリショイ劇場 で観たプッチーニ=「ラ・ボエーム」の第1幕・パリの屋根裏部屋の窓から見える風景は、パリの家々ではなく、 ロシア風の建物が並んでいたのはご愛嬌でした。

【閑話休題】= 私の無責任・音楽雑記【オーケストラのピッチ】

基音のピッチは440ヘルツが標準とされていますが、戦後の一時期、ピッチを上げるのがはやり?ました。442であったり、 時には445と言うのまであります。ピッチが上がると、音が華やかになりますが、歌手や木管楽器にとっては少し厄介です。 演奏の前の基音合わせは、簡単に見えますが、本当はそうではありません。

チェリビダッゲは、約30分間かけたといいますし、ボストン響が(見たのは1回だけ)測定機械を使っていたことがあります。 オーケストラでユニゾンの音の美しさを初めて日本で聴かせてくれたのは、昭和29年(1954)の近衛秀麿指揮の近衛管弦楽団でした。

【閑話休題】= 私の無責任・雑感【演奏会場】補足

先に{ウィーン・フイルの定期演奏会は、その前日に「ゲネプロ」と称してコンツエルト・ハウスで同じ曲目の演奏会をやリます} と書きましたが、昨シーズン?からは、改装が出来たためか、コンツェルト・ハウスの使用をやめて、定期演奏会を2〜3日間、すべて本拠地の ムジーク・フェライン・ザールで行うことになったようです。が、切符の入手の難しさは変わりません。

【閑話休題】= 私の無責任・音楽雑記【世界のオーケストラ】

日本のオーケストラの活動の歴史については、戦前篇でご紹介しましたが、世界のオーケストラの活動の歴史についても、 書いておきます。

  1. デンマーク・ロイヤル管弦楽団〔最初はブラスバンド〕    1448年
  2. ドレスデン・シュターッカペレ(歌劇場管弦楽団)        1548年
  3. ベルリン・シュターッカペレ(歌劇場管弦楽団)         1742年
  4. ライプチッヒ・ゲバントハウス管弦楽団           1743年
  5. サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団       1772年
  6. パリ音楽院管弦楽団                    1828年
  7. ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団            1842年
  8. ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団          1842年
  9. ボストン・フィルハーモニー交響楽団            1881年
  10. ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団            1882年

* ロンドン・フィルハーモニーの創設が、1813年という記述もあります。

   = 中野 雄著「ウィーン・フィル音と響きの秘密」より。

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