【学生指揮の伝統とプロ生活】

   = 中島良能(昭和38年経営・指揮・チェロ)

私は大学では、趣味のバイオリン(2年よりチェロに転向)でオケに入った経営学部の学生だったが、光栄な事に2年の時に 副指揮者、3・4年は正指揮者として20曲以上の管弦楽作品を演奏させて頂いた。当時は音楽は全員が参加して作りあげるという思想があった。 教育学部には専門の先生も居られ、指導を依頼することも出来たが、あえてそれを断り学生指揮にこだわったと先輩から聞いていた。 今改めて「学生指揮の伝統」は何であったか感じるところを記してみたい。

オケでは指揮者は全てを委ねられた絶対的な存在である。近代オケは編成も大きく複雑で、特にプロの場合は1回か2回の練習で 本番となれば、指揮者に全権委任するのが現実的である。しかし、このように指揮者が君臨しているのが良いか否かは一概にはいえない。 私がここ数年客演指揮をしているルーマニアの国立オーケストラを例に考えてみたい。

ルーマニアでは人口十数万規模の都市には大体プロのオケがあり、毎週定期演奏会を開いている。団員はその土地の音楽高校を出た 成績優秀者が主要都市の音大に進み更にその中の優秀者がオケに入団してくる。彼らはその後定年まで毎週練習3日間、それに当日のゲネプロと本番 という週休3日のサイクルで一生オケで働く。練習初日は全部が初見で、「これでもプロか」という演奏をする事もあるが、2日目には見違える ように良くなり、譜面の単純なモーツアルトなどは、それ以上練習すると却って緊張が維持できない時もある。日本のプロのオーケストラのように 年間の練習回数より本番回数が多いというのも問題だが、一方演奏の源泉は情熱であるから、これをずっと持ち続けるのは以外に難しい。 彼らの場合、技術的な問題は殆どないので、あとは如何にして音楽に燃える態勢を確保するかしかないのである。

一般にプロ、アマを問わず人の感性から生まれた音楽そのものは人に教える事はできない。教えることが出来るのはそれを表現する 手段としての技術だけである。指揮者は個々の演奏技術は教えることは出来ないし、又自分は音を出さないのだから、その役割はプレーヤーの持って いるものを如何にうまく引き出すかにある。近代オケでは指揮者の権限が大きいからこそ、その結果没個性化するプレーヤーの活性化が図られなけれ ばならない。オケは生活の手段と割り切り、音楽的な達成感を室内楽等に求めるというプロもいるが、毎日の職場であるオケで達成感をえられれば それに越した事はない。これが今ルーマニアで最も心を配っている事である。

神大時代の先生を頼らず学生の参加する「学生指揮の伝統」は今思えばオケのあり方に照らし、的をえたものであったと思う。

日本ではプロであっても弦のボーイングが初回は中々合わず、「アップだ」「ダウンだ」と大騒ぎをする光景が時にみられるが、 ルーマニアでは、全くそれがない。ボーイングの原則は大事な音は必ずダウンで弾くものであり、当然その前の音はアップになる。ルーマニアでは その音楽のフレーズの中で大事な音がどれかという感覚が始めからオケの全員に共有されているのである。東欧諸国は外国との交流が少なく、 メンバーの音楽観が長い歴史の中で一致して確立されてきたのに対し、日本人は元々歴史がない上に勉強してきたバックグラウンドが夫々異なるので、 バラバラな音楽観を持った人が一つのオケを構成している。これが日本のプロ・オケが、早期教育・激しい競争・高価な楽器など客観的条件は良いのに ヨーロッパに未だ勝てない理由である。ひとつの解決策は十分な練習の回数を確保することである。これは学生オケなら可能だが、コストに経営が支配 されるプロには厳しい。しかし何度練習しても音楽を求める方向感覚が一致していなければ音は揃ってこない。オケの魅力は室内楽やソロと違って、 先ずまとまりのある大きな響きであり、又ピアニシモであっても綿々と切れずに続く長さの迫力である。これはメンバーがひとつの音楽性を共有し それを統合した時にえられる。ヨーロッパでもベルリンフィルやスイスのオケなどは多民族の集りで、ウインフィルや東欧のオケの様に自然には 揃わないが、感性の統合を意識する豊かな音楽性と練習で迫力ある音楽が作られている。

私が最初にルーマニアに行ったのは1995年。西端の町オラディアで、ここはハンガリーのブダペストから3時間と近く、 又ウイーンからもそう遠くないせいか西欧風の雰囲気をもった都市だった。この都市の国立オーケストラを指揮したが、音色は軽やかでこの点からも ウイーンが感じられた。次の訪問地はボトシャニ市で95年から99年まで4年強の期間この地の国立オーケストラの客演指揮者として 年に2・3回渡航し演奏をした。ボトシャニ市はオラディアとは反対の東北端に位置し、旧ソ連のウクライナに近くオラディアとは雰囲気がかなり 異なる。最初に行った時はブカレストから特急列車で5時間、昔モルドヴァ公国だった頃の首都ヤシに着きそこから車でボトシャニに向かった。 どこまでも続く少し起伏のある平野、人と荷物を乗せた馬車が走っていてそれを追い抜きつつ、牛の群れや鶏が走り回る農家を見ながら走ること 2時間半。こんな所で音楽会ができるのだろうか、出来たにしてもお客さんは馬と牛ばかりではなかろうかと不安がよぎる。風景はこのあたりでは 少しロシア風の建物もあり、オーケストラの音は重めで、オラディアと同じ国のオーケストラとは思えない。この他に、文教都市のヤシ 歌劇場管弦楽団、そして2002年の日本・ルーマニア修好100周年では工業都市のバカウフィルで指揮し、又ボトシャニ・フィルのスチャバ (元モルドヴァ公国の首都。付近にある15・6世紀のフレスコで覆われた修道院群が有名)公演も指揮したので、この8年間でかなりの 数の町を周った。公演には練習を含めて5日間あればよいが、地方都市はブカレストから時間が掛り、これまで8年間で200日程度 ルーマニアに滞在した。

又同じオーケストラにある期間いるとお客さんやオーケストラの団員とも親しくなる。ボトシャニでは終演後団員とお客さんの ミニパーティーが行われることも多く定期会員のお客さんと顔見知りになり、町で出会うと「明日は必ず聞きにいく」からといってくれる。 コンサート終了時には、そのようなお客さんから花束を貰いステージ上でキスをされたりもする。又団員の家によばれたり、一緒に観光してくれたり その親しみの表し方は想像以上のものだった。ある時町の芸術アカデミーの教授を兼務している団員が生徒を教えている所を見せるというので行って みると、まだレッスンが続いているのにツイカ(プラムの蒸留酒で強い!)をすすめられ、午後の早い時間から教室で酒盛りが始まった。 そうなるとレッスンどころではなくなってしまう。地方に行けば行くほど人々は他人への親愛の情を深めそしてそれを精一杯表現しようとする。 最近日本でルーマニアの地方の人々の純情さ、自然とのふれあい等をテーマにしたTV番組で「癒しの国」と言われている。しかしこの 「癒しの国」なる表現は日本人の基準で見たもので、彼らはただ普通の生活をしているだけなのである。日本人は物質文明を追求し過ぎて癒しを 必要とするようになったという事に気付かねばなるまい。日本では音楽文化の向上といえば良いホール、良い楽器が必要と考えてまずハードの 整備から始める傾向にある。その点ルーマニアのプロ奏者の持っている楽器はお世辞にも良いとはいえないが、そこから出てくる音楽の豊かさでは 日本人が大いに手本とすべきものがある。ルーマニアの日常生活に接すると日本にあるものとないものの差がはっきりし、今混迷といわれる 日本の将来のあるべき方向を教えられる。

(中島良能氏・略歴=53才の時に日本IBM社を定年扱いで退職し、桐朋学園大で指揮法を学ぶ。 静岡プロムジカアンサンブル首席チェロ奏者。ルーマニア国立ボトシャニフィルで5年間首席客演指揮者を務め、 現在は同国立バカウフィル客演指揮者。湘南エールアンサンブル音楽監督。湘南ヤマハフィル・湘南アマデウス合奏団常任指揮者)

* ルーマニアは東欧唯一のラテン系民族国家です。彼等はローマ人の末裔であると称し、実際イタリア語に似た表現があったり、 ブカレストのローマ広場には、狼の乳を飲むロムルスとレムスの像(ローマの象徴)がありました。2002年秋、1人でこの国を訪れ、 1週間で国内の約3分の2を周りました。中島氏の文章通り、自然と人情が豊かで独特の地方色を併せ持つ素敵な国でした。 また私の勝手な解釈ですが、ドナウ川に沿う国のヴァイオリンの音色には、極めて同一・同質性があると思っています。
   = 千葉

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