= 中 島 良 能(昭和38年経営卒・指揮, Vc.)
昭和35年(1960)、当時の神戸大学交響楽団内にオーケストラの歴史を調べて文書化しようというプロジェクトチームが発足した。 当時4年生の水垣 健氏(昭和36年法卒,Tbn)や3年生の鈴木肇氏(昭和37年理卒,Vc.)等がメンバーで私は2年生を代表してこのチームに入った。 それに伴ない、昭和36年(1961)3月、組織が煩雑になったことを理由に、神戸大学交響楽団システム一覧表が出来、部長の武貞氏を頂点に マネージャー・コンダクター・コンサートマスターの3者の役割を明確にした。また同時に最低限度の責任を団員全員が分かち合うことが必要であ ることも強調された。そしてこのマネージャーの下部組織として「後援会準備委員会」が設立された(委員=曽野・藤原・水垣・四本・野村・中島・富田・ 森島氏)。
このプロジェクトの終了後、現在の『響友会』の発足につながることになるが、当初の目的は歴史の編纂で、必ずしも始めから 響友会を作る事を予定していたかは定かでない。調査の重点は昭和二十年以前(戦前)の歴史で、先輩を訪ねて戦争で焼け残った当時の写真やプログラム から、メンバーを思い出していただき、名簿や曲目などを特定していった。後は同じ聞き取りを繰り返していったのだが、新幹線など無かった当時 東京まで夜行で出向き資料を集めたことも懐かしい。戦前といっても調査の対象は経済、経営、法の三学部の前身の神戸高商、商大だけで凌霜会と いうしっかりした同窓会があったので名前さえ分かれば名簿などはあまり苦労なく出来た。
昭和37年(1962)6月16日、大阪・梅田新道のアサヒ・ビャホールで行われた神戸大学交響楽団後援会の創立総会で、
などを決めた。また、戦前の先輩を訪ねると必ず出てくる名前が山中直一氏(故人・大正8年,Pf,Vn,指揮)であった。 氏は戦前のオケの中心に居られた方で、当時摂津本山にあった山中氏邸に伺い色々お話を伺った。このような経緯から初代響友会会長は 山中氏にというのは関係者全員のコンセンサスだった。
響友会が発足してから私は専ら出来たばかりの名簿を頼りに会費(寄付)を頂きに伺った。当時安宅産業の社長であった安宅英一氏 (大正13年,Pf.)の会社を訪ねると、いつも秘書の方がポンと1万円を寄付してくださった。当時の大卒初任給が1万5,000円位の時の話である。 又大正時代はオーケストラ・マンドリン・グリークラブなどが未分化であったため、先輩によっては「全部のサークルが会費をとりにくる。 どこか一つに決めて欲しい」といわれた事もあったが、「はあ、おっしゃる通りです」などと言いながら毎年その先輩の所に会費を頂きに行ったも のだった。又後に響友会の会長をお願いした橋本宗夫氏(故人・昭和2年,Vn.)は、当時60才に近いお年だったが、お宅に寄付を頂きに行くと色々 楽器があり「中島君、今日は一曲合わして行ってんか」と愛用のバイオリン(1,600年代の名器シュタイナー)でバッハなど、なかなかの音色で弾かれ たのには驚いた。2度目に伺ったときは「中島君、家に合奏団を作ってくれへんか」との事。このようにして芦屋の橋本邸の30数畳ある応接間に 神大オケの弦のメンバーを中心とする『芦屋室内合奏団』が誕生した。橋本氏はずっとバイオリンを弾きながらスポンサーとしてこの団体を援助され、 氏が亡くなられてからも現在でもまだ続いている。もうかれこれ40年になるだろう。メンバーは藤本恭子さん(昭和40年・理,Vn.)、鳥丸安雄氏 (昭和42年・工,Vn.)、鳥丸{平島}直子さん(昭和42年・文,Vc.)、高橋由仲氏(昭和42年・教,Va.)、福永精一氏(昭和45年,Vn.)など、 中心は発足当時から変っていない。
当初はこのような個人のスポンサーシップもあったが、今では響友会の人数も増えて組織的に学生オケを補助しており、
現役学生諸君の負担軽減に望ましいことである。出来れば、例えばヨーロッパから指揮者やコンマスを呼ぶなどオケの実力向上に役立つ形の
ある援助が出来ないかと思う。現在の神大オケの力はそのようなことを必要とする実力とニーズを備えていると思うからである。
(付記=96年・サマーコンサートと第48回定演に、ロシアから指揮者を呼んだ。サマー・コンサートではリズム感など素晴らしく、
さすがと思ったが、2度目は、聴いていた限りでは、オケとの感覚の差があり、指揮者のカラ回りになった部分が多く残念だった。= 千葉)。
昭和39年(1964)5月31日、神戸・元町のビー・ハイブで第3回の総会が開かれた。学生十数人と先輩十余名が集まり、
戦前の山中直一(初代会長)・橋本宗夫(第二代)・西村俊一氏と戦後の千葉修二氏が挨拶の後、会食をした。ここの女主人の話によると、娘時代に
広告を取りに来られた高津奈良夫氏(大正14年・Vn)に、親の目を盗んで広告代を出してくださったとの事。今更ながら、神戸大学オーケストラの
息の長さを知った次第です。会計報告で、響友会の財産目録を作るべきではないかとの意見が出、会費によって買った楽器の所在をはっきりする事
が必要とされた。また、先輩方との交流の場として響友会が盛んになれば良いと思い、現役学生は、そのためのお手伝いを、進んでするつもりです。
(付記=残念ながら、その後の日本経済の高度成長の多忙さの中で、
このような試みが恒常的に果たされる事はなかった=千葉)
第3代目の会長岩崎純一氏(昭和8年・商大2回,Vn)から昭和62年(1987)、響友会会長を引きつぎましたが、当時の響友会は名前が あるだけで、ほとんど協力するOBも無く、そのため、会計は現役の担当者に任せっ切りで、現役に対する助成金も、自動的に会計口座から支出され、 年に1回の『総会』までは経理内容など一切が把握出来ず、また、『総会』への先輩の出席も1・2名で、しかも会のたびに顔ぶれが変わると言う状態で、 会長だけが居られるに過ぎない組織でした。私も、響友会自体へのかかわりは殆どなかったのですが、高橋一三氏から「何もしなくて良いから」と半ば 無理やりに引き受けさせられました。私は (1)後輩への金銭的援助 (2)響友会メンバーの集い (3)後輩との直接的交流の3つの目的をたて、少しでも 実現したいと色々考え、OB諸氏の応援を要請するなど、5年間位は出来るだけのことをやりましたが、なかなか十分なご協力・成果を得ることが出来ず、 所詮1人では何も出来ず、このままでは会の存続すらおぼつかないと考え、東京に行った時に、副会長の高橋一三氏に会長辞退の申し出をしましたが、 「何とか皆に協力をさせるから」と説得されてしまいました。
◎ 平成2年(1990)度の響友会総会。 於六甲{八悟}
*平成2年度・会費収入 613,941円 [約130人]
前期繰越金 498,354円
支出 640,478円
(うち名簿作成代 24万円・現役助成金 40万円)
次期繰越金 471,817円
出席者= 会長・千葉修二、副会長・松本輝雄、
(理事)橋本一豊・児島謙太郎・米田 功・橋本宏夫・遠藤 真
幸いその4年程前から、田中清三郎・児島謙太郎・鈴木 肇氏達が、お正月に『音出し会』と称して定期的に会合をされていましたので、 平成4年(1992)から、その場を借りて、一応『響友会総会』とすることになりました。その後、大学構内から神戸・元町の貸会議室へと場所や開催日時 不特定で、はっきりした理事制度も議事録もないままに、神戸近辺の方たち(松本・小泉・児島・田中・武貞・鈴木・寺井・富田・松永・浦井などの諸氏) が入れ替わり立ち代りで会合を続けました。
その間、(1)については会員の皆様方から頂いた会費から毎年40万円の援助を何とか続けることが出来ました。(2) に関しては、平成5年(1993)、田中清三郎氏の献身的なご努力と橋本一豊氏のご協力で【第一回響友会全国大会】を開くことが出来ました。が、 (3)に関しては、2・3回交流会を行いましたが、会費収入が少ないために資金が不足して続行不可能となり、中止せざるを得なくなりました。
私が1954年に商社に入ってからの16年間は、日本と海外を行ったり来たりの駐在生活で、東京に落ち着いたのは1981年2月で あった。そこで、響友会支部を作れとのお話があり、東京在住のオケの卒業生に声をかけ、第1回の会合を昭和57年(1982)2月に八重洲の中華料理店 で開いた。集まった人数は6〜7名だった。その後、春秋の2回、丸の内・帝劇ビル地下の東京凌霜会クラブで例会を開いている。ただ集まるだけでは能 が無いので、2重奏などをやったが、時間と場所の制限もあり、第1回の合宿を昭和61年(1986)4月に五日市の養沢センターで行い、昨年(1994)で 9回となった。参加人員は20名位で、田中清三郎氏の名アレンジで充実した合宿となった。
= 田中 清三郎
平成5年(1993)頃の響友会は前述の様に、理事会が年に一度『総会』の名のもとに、僅かの会員が義務的に集まって開かれる程度で、 同世代の集まりも同窓会的に個々に集まるだけで、世代を超えた縦のつながりの会合はまったく無かった。会の在り方として、この縦のつながりとなる ものを行いたいと思い、同窓全員が顔を合わせる全国大会の実現を企画した。そして、初の全国大会は平成5年9月4・5日、神戸市垂水の「舞子ヴィラ」 で2泊3日の日程で行われた。当時は響友会の会計や事務処理など、すべてを現役にやってもらっていた関係上、この大会の企画・運営なども、 すべての面で準備段階から現役に協力してもらった。特に、演奏面では半数以上が現役で、この方々の協力なしでは到底実現することが出来なかった。 参加者はOB・OG=43名。現役=31名。計74名もの多数にのぼった。ただ、響友会自体からの経費支出は20万円がやっとで、その上、 現役諸君の費用はOB・OGの負担としたため、東京など遠方からの参加者の費用は1人当り4〜5万円と言うベラ棒なものとなった。 それでも初の大会と言うこともあって、遠隔地からも10名以上の方々に参加して頂いた。会は演奏を軸にしたので、現役諸君のステージ、 OB・OGだけのステージ、有志によるアンサンブルなどなど、実に盛り沢山の曲が演奏され、全員合同では、チャイコフスキー=第5番を演奏した。
響友会としては初めての試みだったので、費用や参加形態の面などで、大成功とまでは行かなかったが、その後、 現在にいたる響友会としての発展的な新しい活動の端緒になった意義深いものであった。
この全国大会の成功を受け、平成6年(1994)9月の総会で、響友会の強力な活動を推進することになり、 初めて正式な理事とその役割分担が決まりました。また、田中清三郎理事から積極的な発言があり、響友会の今後の3つの構想として [(1)全国大会の定期的な開催。(2)広報誌の発行。(3)OBオーケストラの設立]が述べられました。先ず、出来ることからやろうと言うことで、 早速 (2)広報誌の発行を行うことになりましたが、田中氏はこれからワープロ(当時パソコンは普及していなかった)を習ってやるとの事で、 その情熱に感激した私が、昔、新聞社で雑誌・単行本製作の仕事をした経験を生かし、全面的に協力をして「あ・てんぽ」が誕生することになりました。 当初は年2回発行も考えましたが、ここでも資金面がネックとなり、現在の年1回となりました。尚、田中氏の上達のスピードは見事で、 第2号以後はお1人で全部を見事にこなして頂きました。また、会計年度を12月末に変更し、 あわせて、従来の神戸大学響友会・会則および細則を変更しました。
◎平成6年(1994)総会で決まった常任理事、()内は担当部門
会長・千葉修二、副会長・松本輝雄(関西)、高橋一三(東京)
常任理事・小泉 良、鈴木 肇、武貞延也(総会)、寺井直行(役員会)、
浦井 勲(懇談会)、橋本一豊(会計)、児島謙太郎(事務局)、
田中清三郎(広報)、小田川泰幸、三波徳郎(ゴルフ会)
*平成5年(1993)度会計内容
会費収入 566,940円 [約140人]
前期繰越金 1,269,233円
支 出 692,072円
次期繰越金 1,144101円
◎平成8年総会・現役との懇談会 平成7年11月18日=神戸大学ランズ・ボックス
*平成7年(1995)度会計内容
会費収入 556,000円 [132人]
前期繰越金 975,428円
支 出 1,495,667円
(うち「あ・てんぽ」作成代 5.5万円・現役助成金 40万円)
次期繰越金 335,761円
今期の支出が多かったのは、阪神大震災のため「あ・てんぽ」の発行が2回となったことと、東京合宿への現役参加費負担によるもの であったが、会費納入の増大が見込めず、次期繰越金が少額となったため、次回の「あ・てんぽ」をサマーコンサートの案内と同送して通信費を節約、 現役との懇談会の中止、現役への助成金の再検討などを行った。ただ、3年に1回の名簿発行・4年に1回の全国大会の開催は何とか続けて 行うことを確認した。
◎平成9年総会 平成9年4月18日 三宮センタープラザ西館
*平成8年(1996)度会計内容
会費収入 735,000円 [159人]
前期繰越金 339,561円(前年との誤差は締切後の納入金)
支 出 448,528円
(うち「あ・てんぽ」作成代 6.5万円・現役助成金 20万円)
次期繰越金 626,033円
今期は納入会費が少し増えたが、次期繰越金は十分とは言えず、引き続き緊縮財政とする。現役助成金は従来の半額20万円、 「あ・てんぽ」発行は年1回、東京支部の合宿補助・現役との懇親会は中止、名簿の発行は止めて修正・補足分のみとしました。
◎平成10年総会。平成10年4月18日 三宮センタープラザ西館
*平成9年(1997)度会計内容
会費収入 952,080円
前期繰越金 626,033円
支 出 494,086円
(うち「あ・てんぽ」作成代 18万円・現役助成金 20万円)
次期繰越金 1,084,027円
今期も緊縮財政のため、現役助成金は2年連続で、従来の半額20万円としましたが、平成10年度は従来通り40万円に戻せる 見込みです。
= 藤 原 興
数年前まで、関東に在住する響友会のメンバーが楽器を持ち寄り『合宿』での合奏などを楽しんでいたが、中断されて久しくなり、 「1度、何かやろうよ!」との声が出たのが約1年半前。今回〈東京大会〉を開催し、久しぶりに旧交を温めました。関西からは、千葉会長をはじめ、 響友会役員・現役、計10名の参加を頂き、初の東京大会としては、なかなかの盛会でした。
日・時 平成11年(1999)2月20日(土)11時半〜15時半
場 所 横浜市青葉区「東急コミュニティホール」
出席者 42名
会 費 8,000円
演奏会 アンサンブル=児島(オーボエ) 小泉(フルート) 田中(ピアノ)
松山(ヴァイオリン) 若手カルテット=石田茂雄・他
懇親会 中本氏の乾杯後、時間の経つのも忘れて楽しい時間を過ごした。
◎平成11年総会 平成11年4月17日 三宮センタープラザ西館
*平成10年(1998)度会計内容
会費収入 690,810円
前期繰越金 1,140,786円(前年との誤差は締切後の納入金)
支 出 756,010円
(うち「あ・てんぽ」作成代 18万円・現役助成金 40万円)
次期繰越金 1,075,586円
その後、理事会の会場が集まりやすい大阪・凌霜クラブに移ると共に、常任理事の交代があり、常任理事の中でも積極的な専務者として、 田中清三郎(広報)・寺井直行(事務局)・小田川泰幸(会計・ゴルフ会)氏の基本的な構成が出来上がり、徐々に活動範囲を広げてゆきました。私としてはこの 3人の強力な後ろ盾が無ければ、到底今日の響友会活動は無かったと心から感謝しています。また、橋本一豊氏には会計監査を行って頂くことにし、 さらに若手常任理事として平成11年(1999)から、仁井清喜・岩畔昌仁(名簿管理)・鈴木雄二(電子名簿)氏、理事として武貞延也・松永 明氏にも参加を して頂きました。
また、理事の補助役(主として同世代会員の動向把握)として、年次代表理事をお願いすることとなり、依頼文を送って協力を求め、 29名の方から就任の賛同を得ました。従来、専従理事不在のため現役に任せていた響友会会計を小田川氏に全面的に引き受けて頂き、 会計内容の把握も完全なものとなりました。
東京ではこの間、平成9年秋、リタイアした藤原 興氏が実務の中心となって年に数回の例会を続け、若手の参画も得て 平成11年2月の東京大会、さらに平成14年11月の全国大会につながることになりました。
= 寺 井 直 行
平成12年(2000)7月1日(土) 現役の《サマー・コンサート》に合わせて、5年ぶりに響友会全国大会が、 尼崎『ニューアルカイック・ホテル』で開催され、鳥取や富山などの遠路からの参加者を含め、OB計81名が参集し、 前回以上の熱気に包まれました。千葉会長の挨拶に始まり、現在プロとして活躍中の、フルートの吉岡美恵子・指揮者の 岡田 司・舟曳圭一郎三氏の紹介とお話。吉岡さんのフルート独奏があり、乾杯してからは楽しい懇談が渦巻く中でアンサンブル・コーラスなどが 披露され、最後に岡田 司さんの指揮で[ベートーヴェン=エグモント序曲]を合同演奏しました。岡田氏の的確な指示と名指揮で、 練習時間も無かったのに「信じられない程」の見事な演奏。「これ1回では勿体無い」の声も出る程でした。終了後、現役オケの演奏会を聞いたり、 各世代毎に旧交を暖めたりしました。
また、会員の皆様方130人から頂戴しました特別会費のお陰で、例年の金額に30万円を上乗せして、 計70万円の助成金を現役諸君に渡すことが出来ました。
* 今回初めて響友会のイヴェントに、同期の友人と参加した。会場は何か不思議な空間だ。色々の世代・職業の方が「神大オケ」と言う
結び付きだけで集まっている。学生時代の私にとって「神大オケ」は絶大な魅力を持っていたけれど、気が付けば今でも変わっていない。合同演奏に楽器を
持って、いそいそと集まる先輩方の気持ちは、学生時代の頃そのものだろう。皆さんのお顔を見ているだけで、こちらも嬉しい気分になる。事務局の
お気遣いで、子連れ・夫連れで参加した私も、心から楽しませて頂いた。
= 前田由里(平成2年・S38,Vn)。
* 50歳を意識始めた私にとって、何とも懐かしく夢のように楽しい時間でした。また、参加された皆様1人1人の中に、音楽への情熱が学生時代と
同様に、脈々と息づいている感じに圧倒される思いでした。世代を超えたこんなアンサンブルが、年に1回でも実現できないでしょうか。
= 岡田 司(昭和561年・B24,Vla,指揮)。
◎ 平成13年総会 平成13年4月7日 大阪・凌霜クラブ
*平成12年(2000)度会計内容
会費収入 1,737,390円[174人]
前期繰越金 901,794円
支 出 1,041,929円
(うち「あ・てんぽ」経費 21万円 現役助成金 70万円
全国大会参加費 243,000円
全国大会経費 804,528円
次期繰越金 1,035,727円
総会出席者 千葉・寺井・藤原(東京)・田中・橋本宏夫・岩畔・(現役)佐貫・円山
平成13年10月の理事会で水垣 健氏の常任理事就任と、それに伴ない「あ・てんぽ」の編集・製作を田中氏から肩代わりして 担当して頂くこと、東京支部が2002年11月に開催を計画している【つま恋・フェスタ】への協力、東京支部活動費として年間10万円の支出、 新名簿の発行、会費納入の督促、千葉会長の辞任などについて討議・決定しました。
◎平成14年総会 平成14年4月4日 大阪・凌霜クラブ
*平成13年(2001)度会計内容
会費収入 848,500円 [144人]
前期繰越金 1,035,727円
支 出 1,106,523円
(うち「あ・てんぽ」・名簿経費28万円。・現役助成金 40万円)
次期繰越金 777,704円
総会出席者 高橋・藤原(東京)・松本・橋本・田中・児島・水垣・寺井・富田・嶋田・小田川・(現役)円山・西岡
平成14年6月の理事会で、会長交代に伴ない新人事が決められた。
会長= 橋本一豊 副会長= 笹井克巳(東京)
常任理事= 田中清三郎・児島謙太郎・仁井清喜・藤原 興(東京事務担当)
・水垣 健(広報)・寺井直行(事務局)・富田 肇(会計監査)・嶋田輝史・小田川泰幸(会計)
・岩畔昌仁(名簿)・鈴木雄二(名簿・電子情報)
名誉会長= 千葉修二 顧問= 高橋一三・中本規久生・松本輝雄
また平成14年9月の理事会で、
などを決めた。{響友会コーナー}は、平成14年12月の【第52回定期演奏会】から実施し、 約50人の会員に立ち寄っていただき、最初の出だしとしては、大変好調であった。
= 藤 原 興
かって同じステージに乗った仲間ともう1度一緒に演奏したい、世代を越えた仲間と合奏してみたい、しばらくご無沙汰になっている 楽器や旧友にも再会したい、そんな様々な思いを実現させてくれるビッグイベント。神戸舞子(平成5年)、尼崎(平成12年)に続く第3回響友会全国 大会【KYOYU FESTA IN つま恋】は、ヤマハリゾート地・つま恋(静岡県掛川市)において、平成14年11月9日(土)〜10日(日)にわたって開催されました。 会員とその家族も含め42名が前日9日から、当日10日にはさらに14名が参加しての盛会となりました。会場のミュージック・ガーデンは、 ホテルやスポーツ施設が点在する「つま恋」の広大な敷地の一角にあり、ステージと客席があるホールの他に、ピアノと防音装置付きの小部屋が 10室近くある独立棟と言う立派な施設でした。(長谷川さんに大変お世話になりました)
9日午後に集合した参加者は、実行委員から説明を受けた後、直ちにグループに分かれ音を出し始めました。午後5時半からは、 前回の尼崎で当時の「あ・てんぽ」(̺7)によると、「信じられない程の見事な演奏」で、これ1回きりでは勿体無いと好評を得た 『キョウユウカイ・キネン・オーケストラ』が、再び岡田 司さん(S51)の指揮で再現され[ビゼー=アルルの女・第2組曲]に取組みました。 メヌエットでの吉岡美恵子さん(S54)のフルートソロには演奏メンバーも思わず拍手。アッという間に時間が経過して6時半からは夕食。 その後は自由時間で、それぞれに過ごすうちに夜は更け、その後も談笑は深更に及びました。
翌10日は、朝食後、8時半からグループ別練習開始。その後、オケ練習。当日参加のメンバーも到着して、11時過ぎから今大会の 本番となりました。笹井実行委員長(響友会副会長兼東京支部長)と藤原実行委員(響友会東京事務局担当常任理事)の挨拶に続き、いよいよ「演奏会」。 谷口人史さん(S51)の司会で、プログラムが進行。全国大会ならではの組み合わせによるメンバーの演奏が次々と披露され、最後は千葉名誉会長の パーティでのご挨拶のように、尼崎の時より一段と音楽的にも進歩した『キネン・オケ』の演奏で締めくくりました。午後は懇親パーテイー。 食事と同世代や離れた世代同士の談笑がそこここで弾み、男性ヴォーカルや弦楽合奏も飛び出し一段と盛り上がるうち、高橋さん(S29)の 「再会を約そう」とのご挨拶を最後に、一同大きな満足感を胸に、互いに名残を惜しみつつ午後3時半に散会しました。
【実行委員からのメッセージ】昭和28年卒から平成12年卒にまたがる大勢の会員が、一堂に会して下さったことを本当に
嬉しく思います。ありがとうございました。これを機会に、会員各位がお互いに、今回参加されなかった方々も含めてタテヨコのつながりを
拡げていただけることを期待します。またお会いしましょう。そして一緒に鳴らしましょう。今回のイベント経費は、
会場使用料・宿泊・飲食・カラオケ・準備・通信費で総額125万円。参加者負担金85万円と響友会会計からの拠出40万円でまかなわれました。
= 実行委員
= 長谷川昌治(昭和36年・E9 ,Vn ,指揮)
地元の静岡県掛川市のヤマハ施設の「つま恋」での、東京支部主催のフェスティバルは多数の参加を得て盛況裡に行われました。 橋本響友会々長、千葉前会長を始め平成11年卒業生10名近くも当日馳せ参じて呉れて、新旧織り交ぜて、楽器あり・歌ありの素晴らしい交流の場と なったと思います。我々の卒業年度の昭和36年は、日本の高度成長が始まりそうになる前の1960年代。平成11年度卒業の皆さんは 高度成長・バブルも終わり、何となく閉塞感のある日本の現状に直面して居られると思います。当時の世相と今、世界の中の日本も変わっています、 世代間のギャップは相当のものでしょう、それでも細川君と何の衒い戸惑いもなく話しが出来たのは、音楽・オケ・響友会という共通項を持って いるからでしょう。同じ卒業年度でも、若しこのような共通項を持っていなかったら、多分親しみ、交流の密度はそれ程濃いもの ではなかったかと思います。
「つま恋」でのフェスタを成功させた立役者の藤原君とは、こんな話をしています。{つま恋では、一つは、各学年・各人の交流の 基盤である音楽・オケといった『共通項』を確認・強化することに少しは資することが出来たのでは・・・、もう一つは我々36年卒が先輩方と、 新しい世代の間の橋渡しの役割を、少しは果たすことが出来、さらに、このような役割を次回は次の世代の方々に バトンタッチ出来たのでは・・・と}。
〔歴代の響友会会長〕
第1代・山中直一【昭和37年(1962)〜45年(1970)】
第2代・橋本宗夫【昭和45年(1970)〜49年(1974)】
第3代・岩崎純一【昭和49年(1974)〜62年(1987)】
第4代・千葉修二【昭和62年(1987)〜平成14年(2002)】
第5代・橋本一豊【平成14年(2002)〜
* 何かと大変なことの多かった1年でしたが、この年(平成7年)の秋には、今の六甲フィルハーモニー管弦楽団の前身となる
神戸大学OBオーケストラが発足しております。一つ上の学年の先輩方を中心に結成されましたが、最初は練習場所も、学生に内緒で借りてもらった
大学の学生会館を利用していました。しかしながらこれもひとえに、オーケストラで共有できた時間を学生であった4年間だけにとどめておくのは
もったいない、もっとオーケストラで音楽を共有する時間を持ちたいという、団員の熱意の表われであったと思います。
= 川嶋 雄介(平成8年)