オーケストラと言う、多数の構成人員・楽器を要する集団にとって、部室・練習場の確保は設立当初から付きまとった難題でした。 部員の少ないうちは、大学の空室を探して回れば何とか格好がつきましたが、本来多数のメンバーを必要とするオーケストラの立場からすると、 これは二律背反も良い所で、設立以来ズッーと、歴代のマネージャー諸君は、解答の無い難問に取り組み続けてきました。
判明しているだけでも、六甲台教室→教官食堂→学生食堂・二階→神戸市内・雲中小学校→日本楽器・神戸支店会議室→ 教育学部・住吉学舎(講堂・音楽室)→御影公会堂→明照幼稚園→岡崎記念館→神戸幼稚園→商工会館→東神戸教会→神戸高校同窓会館→ 神戸ドレスメーカー女学院→教育学部・鶴甲学舎→学生会館。今になると使用した順番も分らなくなりましたが、これは、まさに苦難の歴史でした。
* 両親の許しを得て神大オケに入部出来た時の喜びは言い様もないものでした。そして或る日曜日の午後、練習場の元町日本楽器の階段を
上った時、私の耳に調弦の音が聞こえてきました。素敵でした。思わずヴァイオリン・ケースを握り締めました。練習が始まると、始めて見る楽器もあり、
また背広姿の男性も多かったので、高校時代とは別世界に入ったような気持ちでした。第2ヴァイオリンの後ろで小さくなって座りました。
胸がドキドキしました。渡された楽譜には♭や♯が沢山付いていて、この音は上がって、この音は下がってと、頭の中で計算!。
周りの人が皆上手そうに見えました。どこを弾いているのか、やっと分かって弾きだした途端、ジャーンで「今日の練習はこれでお仕舞い」
だったのです。あっけなかったこと、恥ずかしく悲しかったこと。でも、私の負けん気も手伝って、今に何とかしてみせるとの心構えが、
その時から芽生えたのでした。
= 鈴木(田中)ミチ(昭和32年・Pa 5,Vn)
教育学部の3階の音楽科教室に仮住まいしてから5年間程。練習場の件は小康状態を保っていましたが、昭和38年、 従来のタコ足状態であった学舎が、六甲台と鶴甲に統合されることが決定になり、それに伴なって、姫路分校から移動してきた13台のピアノを 置くため、オーケストラが使用していた部屋の明渡しを求められました。困って学生課に持ち込み、やっと六甲台の講堂の一部、 または講堂付近に楽器置き場を設ける計画が出来、練習は他のサークルに混じって講堂ですることになりました。
* 我が神戸大学は、眼下に神戸の市街を臨み、前方に大阪湾、背後に六甲・摩耶山を見渡せる素晴らしい環境の総合大学となるため、
学舎統合計画が着々進行している。昭和38年(1963)春に鶴甲山を切り開いて、西部劇の舞台のような岩壁を背景に、新校舎が建ち、
教養学部・御影分校が移転し、秋からは六甲台学舎南の占領軍・六甲ハイツ跡に、先に建てられたモダンな工学部と並んで、鉄筋4階建ての
文・理学部の新学舎の建設が始められている。昭和39年(1964)には姫路分校が鶴甲へ移転することになっている。さらに、県立神戸医大が合併されて、
神戸大学医学部として新発足する予定であるが、医大の学舎は現在のまま使用される。
しかし、オケの部室を含む学生会館の建設は予算の関係上、先送りになったのは残念である。
響友会報第1号(1963年12月)より
響友会報での、編集委員の嘆き節=行き悩む練習場、欲しい部屋!、来年創立50年を迎える神戸大学交響楽団として、 音程の確かな品質の揃った楽器を求めるのは当然のことであるが、現在では年に1個の楽器が購入出来れば良い方で、 演奏会の収益の大部分を修理に費やさねばならない。最近、また練習場が問題になってきた。 現在、教育学部の1室に楽器の保管をしているが、そこは一時的なもので、管理の不行き届きもあり、音楽科から立ち退きを迫られている。 六甲台の講堂は多数のサークルが使用しており、また市中となれば、金銭的にも、音響的にも、楽器の保管にも不都合が多く、これも難しい。 すぐに追い出されないで、皆が自由に使用出来る部屋も欲しい。一時期待した学生会館の建設も先の話となってしまった。
待ち望んだ学生会館が、昭和41年(1966)3月31日に落成竣工しました。各建物の地下で長い間使われてきた学生サークルの 部屋が全部閉鎖され、大学の中央部に位置する6階建てのビルに移ることになりました。このビルの5・6階のテラスからの夜景は実に見事です。 (昔から神戸大学から見る阪神地区の夜景は「100万ドルの夜景」と称されてきました。
= 橋本 宏夫(昭和45年・J-18,Fg)
折角学生会館が出来ましたが、それでも43年には、【第18回定期演奏会】が間近に迫る中、 練習場探しに苦労し学生会館・御影公会堂などを転々としました。
= 岩畔 昌仁(昭和50年・T22,Cl)
当時の練習は火・木曜の夜(〜8時)に教育学部音楽棟(合奏練習時の木管の椅子が長椅子だったのを記憶しています)。 土曜の午後(1時〜5時)に学生会館でやっていたと記憶しています。(小田川さんの第19回定演の時期は日曜だったようですが)。 音楽棟はピアノ付きの防音個室があり、考えてみれば、降番の個人練習には極めて恵まれた環境でした。
= 高田 暁(平成6年・T, Hr)
学生会館は馬場と六甲台をつなぐ階段に沿って建っている。建物の細部を見ると完成当初は当時の学生の目には、 さぞかし斬新に映っただろうと思わせる部分がいくつかある。学生会館と神大オーケストラの関係は、国技館と大相撲の関係である。 6階のホール、5階の音楽室は勿論、集会室、ベランダ、廊下が練習場所だ。この建物にはエレベーターがない。年4回の合宿・年2回の演奏会、 それに巡業の時には、あらゆる楽器が人力で6階の倉庫から下ろされ、上げられなくてはならない。これは1・2年生の仕事で、 これから解放される頃には部内で「年寄り」に分類される。
3回生になると色々な局面で「仕切る」ことが増え、同じく仕切る立場にある4回生とスパークリング!ということは毎年の現象。 まさに歴史は繰り返す。歴史といえば伝統。皆が4回生の冬の演奏会まで目一杯土俵に上がることは伝統と言える。これは良き伝統だと思うが、 そうたやすい事でないのも事実。必ず何かと両立させないと不可能だからだ。就職活動・本業の学問・アルバイト・私的な娯楽など、「両立」の相手は さまざま。いずれにしても、楽ではない。皆、それを乗り越えて最後まで頑張る。これは美しくも熱い話である。とにかく熱い。情熱なのだ。 私は大学の4年間「両立」を美徳としていた。アマチュアなのだから何かと両立させてやることにこそ意味があるのだと信じていた。ところが、 最近そんなに「両立」が素晴らしいのか、ふと疑問になることがある。一つだけ一生懸命やる方が良いのでは?。そんな考えが浮かんでくる。 現役時代に、この「両立」について悩む人も多いのではないだろうか。そして時には「オケをやめようか」と言う考えに走ってみたりしつつも、 多様性を容認しやすいオケの深い懐に引き込まれ、感動の千秋楽まで行ってしまうのだろう。午後10時、心やさしい学生会館の守衛のおじさんに 見守られて、その日の練習は終るのである。
= 森 康一(平成7年・J,Hr,指揮)
学生会館の練習場は6階のホールと5階の音楽室を使います。火・木(17〜20時)・土(13時半〜16時半)はホールで行われ、 演奏会本番1週間前からは毎日練習となります。月・水・金は音楽室になることが多くなりますが、この音楽室は狭くて窮屈で、大規模編成の曲の練習、 特にサマコンの前は蒸し暑くて大変です。オケは学生会館の3階以上の至るところで練習しており、大体パートによって棲み分けができています。 金管楽器と打楽器は寒い時でも屋外で練習しています。パート練習やセクション練習の際には、自由競争で場所を確保出来(2週間前から先着順で申し込み)、 3階に4つある集会室も時には使います。もっとも、これらは非常に競争率が高く、演劇やマンドリン、児童文学研究会などがよく使っている ように思います。
この音楽室とホール使用については、学生会館(ホール、音楽室、和室)を使用する団体が代表を出し(オケからは渉内マネージャー)、 話し合いで使用調整をしています。オケでは演奏会の前、他の部だと大会の前とか公演の前になるとお互い融通しあっているようです。 使用する様態は、私の少し上の先輩も同じだったと思いますし、今でも変わっていないようですが、出来た当時については、よくわかりません。
* 夜8時、練習が終わり、挨拶が済むと、それまで一糸乱れず合奏していたオケの面々は各人各様の行動を始めます。
さっさと楽器を片付けて帰り支度をする人。チェックされた個所を復習する人。締切りに間に合わせるべく卒業生紹介を書く人。椅子や譜面台を
片付ける騒音をかき消すマーラーやシュトラウスの大音響の中、原稿の回収が始まり、音が静まった頃には、随分沢山の原稿が集まったものだと、
ホット一息つくのです。
= プログラムより
【閑話休題】= 私(千葉修二)の無責任・音楽雑感
練習場確保はアマ・プロを問わず、大問題です。神大オケも創立当初から悩まされ続けたことは、皆さんの良く知られる通りです。 最近になって、専用練習場を持つプロも出てきましたが、悩みは解消されていません。
ウィーン・フィルの音がが何故きれいなのか‐‐‐。それは練習場が良いからであると断言出来る程、重要な事なのです。
「ウィーン・フイルの団員の頭の中には、いつも演奏しているムジーク・フェライン・ザールでの音の響きが染み付いています。
それで他の会場に行っても、本能的に自分達が持っているその響きを再現しようと努力するので、いつも変わらぬ音を実現できるのです」。
= ウィーン・フィルのメンバーの言葉
= 笹井 克巳(昭和31年・E4 ,Tim)
昭和27年夏に初めて、瀬戸内海の家島に10数人で1泊2日の「合宿」を行った。楽器と飯盒を持って行き、泳ぎの合間に、 猛暑の小屋の中、或いは夜の浜辺で音合わせをして楽しんだ。翌年からは本格的にやろうと、彦根の滋賀大学の学生寮を借りたが、1週間、 毎日雨降り続きとなった泊り込みをやり、最終日に演奏会を開いた。その後、演奏会は合宿での最大のイベントとなった。当時の出演者は22名で [メンデルスゾーン=ピアノ協奏曲・第1番、ハイドン=交響曲、「白鳥の湖」]などを披露した。「合宿」は、その後毎年の恒例行事となり、 最終日に演奏会を開いた。
= 田中 清三郎(昭和33年・J6 ,Vn,指揮)
昭和29年(1954)、和歌山で大騒動を起こした合宿は、その後も、三次(広島)・明科(長野)・松山と続いて行われた。 毎回、演奏会を開き、名マネージャーの横内 昭君が登場してからは、合宿中に学校回りをしてギャラを稼ぎ、部費の不足をおぎなった。
* 「三次」合宿へ行くローカル線の中。児島謙太郎君が手入れしたマウスピースを窓枠に置いた途端、列車の振動で窓の外に飛んでいった。
窓から首を出し恨めしそうに見る彼に、周りの者は「お気の毒に」と笑ってしまった。途中で下校の高校生達が乗ってきた。長旅にうんざりして、
誰が始めたものでもない合奏が車内に響いていた。最後まで演奏して、終わった時、彼らが一斉に拍手してくれ、驚きと嬉しさを感じた。
= 森安貞夫(昭和34年
= 堀 淑子(昭和36年・P,Va)
昭和31年(1956)夏の合宿。信州の田舎町・明科の駅に降り立った我々を待ち受けていたのは、駅前の馬鹿デカイ看板。 そこには「楽しいオーケストラ教室・神戸大学交響楽団大演奏会‐‐古今の名曲・民謡・映画主題歌」と書かれていた。映画音楽なんて寝耳に水。 そんなものは1曲も用意していない。「マネージャーはどんな交渉をしてきたのか!」と息巻いても時既に遅し。やる曲がなかなか決まらず、 本番前日に「慕情」と決定。翌朝の四時半までかかって編曲が完成。当日の午前・午後の練習が終わっても写譜は出来上がらない。やっと届いたのが、 本番30分前。興味シンシンで会場の文化会館は押しかけた善良な観客で満員で練習の出来る状態ではない。「ブッツケや!」との地獄の決断の一声に、 滅多に無い恐怖を覚えたが、観念して指揮棒を振り下ろした。「編曲の勘違いが無いか」「写譜の間違いが無いか」「止まるな!止まるな!」と 念じながらの指揮。編曲で派手に入れたはずのチンパニーの出番を指示する事もすっかり忘れて、結局、最後までチンパニーは一音も発すること なく終わってしまった。
= 森安貞夫(昭和34年・Pa7,Ob)
合宿は、以前と同様、学校や工場回りをした後、演奏会を開いた。33年の富山以降、下関・新潟・四日市と続くが、 37年の九州からは、学校回りは無くなった。曲も定演並みの本格的なものとなり、福岡と小倉で演奏会を開いた。オケが大所帯になったこと もあり、この演奏会も40年の松山を最後に、演奏会なしの練習だけのための合宿となった。
4度経験した合宿で、印象に残っているもののうち感動した思い出として、いわゆるドサ回りの県立富山盲学校での演奏会があります。 目の不自由な子供達が思い思いの方向に顔を向けて、しーんとして体中を耳にして聴いてくれた熱心さや、休憩時間に、楽器をさわらせて欲しいと 近寄ってきた子供達との交流‐‐‐ティンパニーを叩いて嬉しそうに顔をほころばす子供。コントラバスの大きさを手探りで確かめて驚く子供達‐‐‐は、 すばらしいものでした。
また、下関合宿では宿舎での「豪華な食事」は他に例を見ないものでした。さすがスポンサーが大洋漁業というだけあって、 食欲減退の人も多い夏の時期に、ごちそうの連続で、ついに大名料理の「鯛の浜焼き」まで出現し、胃腸をこわす人が続出。 一時は伝染病発生かと騒然となり、何人かは離れの部屋に隔離されたとか、幸い大事にはいたらず、今となっては懐かしい笑い話といえるでしょう。
= 響友会報第1号(1963年12月)より
定演前の合宿は、一昨年(1961)には本番当日まで行ったため、全員の疲労が激しく、折角の本番では平常の実力が充分に発揮出来ず、 大いに悔やまれる結果となった。昨年は合宿抜きの練習で精神的な負担を少しでも軽くし、尚かつ、練習回数を増やすことで欠点を少しでも補うように 努力した。ところが、そのマネージャーの親心にもかかわらず、部員の積極的協力が得られず、本番間際になって、やっと練習場が一杯になる状態であった。 今年も定演成功を祈る部長以下が苦心のあげく、定演1週間前に終わる短期合宿を計画した。場所は芦屋市と交渉の結果、12月1日から3日間、 奥池ユースホステルに決定した。恵まれた環境の中にある近代建築で、5〜6人1組に1部屋が与えられ、かなり広い食堂練習場を持っている。 合宿については、各種問題も含んでいるが、部員一同の協力があれば、定演の成功につながるであろう。
= 勝部 治樹(昭和42年・B15, Fl)
毎年恒例となった夏の合宿は、昭和38年(1963)には、…多分大量の楽器を載せるためであったろうが…、 大阪駅からではなく、湊町駅から関西本線で名古屋に行き、合宿後、鶴舞公園の吹上ホールで演奏会を行った。
昭和39年の夏の恒例の合宿は金沢市郊外の鶴来町で行い、金沢市で演奏会。[ベートーヴェン=交響曲・第5番「運命」、 モーツアルト=バイオリン協奏曲・第4番、ニコライ=「ウインザーの陽気な女房たち」序曲](ソロは当時武庫川女子大音楽部の長尾誠子さん)でした。 終了後、能登半島を1日観光しました。
昭和40年の夏の合宿は松山郊外の重信町横河原で合宿。松山市民会館で演奏会。その後、面河渓で1日遊んだ。
* 名古屋は想像通りに蒸し暑く、バスで運ばれた名古屋学生会館の部屋はどう見ても清潔とは程遠く、さらに食事の粗末さには閉口した。 しかし、合宿費の安さを考えると、ブツブツ言いながらも練習に精出したのは、音楽好きでなければ出来ないことだろう。門限を気にしながら風呂屋に 行き、途中で入って食べたカキ氷の素晴らしい味を今なお記憶している程である。演奏会のホールでは花を飾ったり、反響板を取り付けたりの作業まで することになり、この合宿は実に辛かったが、それなりに良く無茶をやったものだと思う。
= 橋本 宏夫(昭和45年・J-18,Fg)
昭和41年6月の「新人歓迎・姫路合宿」では、広畑中学で演奏会。7月は信州木戸池で夏の合宿。高原の快適な気候の下で練習。 松代群発地震の頃で、注意事項として「地震があってもビックリしてはならない」と書いてあった。定演の曲がウェーバーとシューマン以外決まって なかったので、ストラヴィンスキーの[火の鳥]の練習もしました。この年から演奏会はなしとなり、また、真冬の芦屋奥池のユースホステル合宿の 記録もあります。
昭和42年6月「新人歓迎・篠山合宿」と篠山中学・丹南中学で演奏会。8月には「岡山・夏合宿」。 市民会館で行ったチャリティコンサートは満員の盛況だった。12月の「明石・小合宿」の注意事項には、禁酒・管楽器禁煙!とあった。
昭和43年6月「新人歓迎・神崎町合宿」と市川高校・神埼中学で演奏会。8月の「長野県飯山市・夏合宿」は爽快な気分 で練習出来ました。
昭和50年にチーフ・マネージャーとなり、信州の「一の瀬」で合宿をしましたが、出発当日に台風が来て、予定時刻に全員が集まれず、 バスへの楽器の積み込みも大騒ぎとなり、大変な合宿初日となりました。
= 岩畔 昌仁(昭和50年・T22,Cl)
夏の合宿は各年場所が異なり、1年目は三重県尾鷲。2年目は信州栂池高原。3年目以降は兵庫県北部だったように思います。
冬の定演前はいつも明石公園内の「あさぎり寮」(今も健在)というところでやっていました。同期の奴が夜中に公園内をうろつき、 警察官にパトカー内で職務質問を受け、翌日その警察官が練習を見学に来たこと。国連でのカザルスの演奏TV放送があるので、合宿を抜け出し垂水の 私の実家に何人かで見に帰ったことなどを思い出します。あの「鳥の歌」には感動しました。
= 藤本 真一(昭和50年・E23,Tbn)
この年の夏合宿は、前年に引き続いて神鍋高原で行われた。練習は村の公民館を借り切り、宿泊は近くの民宿ということで、 夏場の閑散とした神鍋スキー場に大挙して押しかけることになるから、村を挙げての歓迎であった。村中にオケの音が響き渡るので迷惑この上ない はずであるが、気持ちよく練習させて頂いた。感謝。
その夏合宿で事件が起きたのは、同じ民宿に宿泊していた前年に遡る。弦楽器の某君がトイレで用を足している時に、あらぬことかズボン の後ポケットに入れていた財布を落としてしまった。今と違って田舎の民宿のトイレは当然の如く水洗ではない。笑うに笑えぬ気の毒な状態になって しまったのである。それから1年が経過した同じ民宿での夏合宿。某君の居ないところで、『誰かまた落としたりしたら漫画だなあ。』なんて冗談まじり に言い合っていた矢先に、再び事件は起こった。またまたトイレに財布が落ちたのである。そして聞いてビックリ、1年前に落としたその某君がまた同じ 事件を繰り返してしまったのであった。本当に笑えなくなってしまった。後で聞いたところでは、民宿のご主人に頼んで拾い上げてもらったというが、 それが1回目と2回目のどちらのことであったのか、記憶は定かでない。「2度あることは3度ある」と言うが、翌年の夏合宿がどこで行われたのか、 はたまた事件は繰り返されたのか、卒業してしまった私には知る由もない。今となっては楽しい笑い話である。
トロンボーン吹きには暇がある。そこで、夏の合宿では他のパートには無い最高の楽しみがある。風呂である。夕食後、合奏練習で出番の 無い楽章などをやるときには、皆が厳しい練習に汗を流している最中に、我々トロンボーン・パートは風呂場で汗を流す。合宿は民宿を利用していたので、 そう大きな風呂が有るわけではなく、他の皆がラッシュアワー状態で入浴するのに比べ、悠然とバスタブで体を休めることができるそれは至福のひと時で あった。そして体を清めて思いっきり寛いだ後に、サッパリとした気分で「幻想交響曲の断頭台への行進」の合奏に加わるのである。皆の羨ましげな視線を 感じたものである。
= 内田州治(昭和54年・E27,Vc,指揮)
5月、8月、11月には合宿があり、練習も懇親も非常に深まりました。朝から夜の8時頃まで毎日パート、セクション、 総合の繰り返しで、特にパート練習が厳しく、早くて難しいパッセージはメトロノームをかけて、出来るまで練習しました。セクションや総合では 度々プルト毎、1人弾きが要求され、それでも駄目なら外で練習して来ることになりました。しかし降り番や休憩時間にはマージャンも盛んで、 曲の有名なフレーズの「替え歌」はこうした中から生まれました。練習が終わると昼間は鬼の先輩も学年、パートを超えて日付の変わるのも気にせず、 毎日後輩と語り合ったものでした。特にホルンパートの深酒とビオラのお菓子は有名でした。こういう生活が毎日続くと、中には体調を崩す部員も現れ、 合宿マネージャーは不案内な土地で病院を探すために奔走することも時々ありました。
最終日には全体で盛大な宴会が開かれました。まずは全員による「初見大会」で始まり、続いてパートのトップにOBの方々も参加して 室内楽が演奏されたり、パート独自の出し物もありました。なかでもトランペットの「動物シリーズ、カッターシャツ」、パーカッションの「スリーD」、 低弦有志による「物まね、踊り、ステレオ」などは、それなりに好評を博していたようです(?)。宴会が終わると男女別々の部屋に集まり、「人気投票」が 行われていました。上級生が投票結果を項目別に昨年度の結果と照らし合わせて、その推移や背景を解説をするという興味深いものでした。
また、青少年の健全な育成を目的とする某施設で合宿をしていたところ、夜の大コンパが管理人の知るところとなり、翌朝マネージャー以下 全員が集められ説教されました。罪状は「就寝時間以降、複数の青年男女が同じ部屋でアルコール類を持ち込んで歓談した」ことです。合宿は中止かと 危ぶまれましたが何とか続行出来ました。しかしその後神大オケはその施設から危険集団のレッテルを貼られ、出入り禁止となりました。合宿中連日の コンパで朝起きられない部員の目を覚まさせたのはマネージャーの「起きよ」の連呼ではなくヴァイオリンのX嬢のホットパンツ姿でした。
昭和61年の合宿は、私が当時2回生でしたので、よく記憶しております。「三方パレス」で行われた合宿で、 先輩につきあって調子に乗って徹夜し、そのあげく、翌朝の弦セクで「退場!」をくらったことも思い出です。
= 三田村忠芳(昭和61年・E33,Vn,指揮)
私たち昭和61年組は、先輩からよく「仲の良い学年」と言われたものでした。脇本氏(Cb)や宇多氏(Trp)が、いつも何かしら楽しい 企画を考えてくれ、夏には信州・冬はスキーなど、学年で旅行に良く行きました。また、団長である谷林氏(Vn)がマメに動いて、プロフィール集を 作ったりしていました。
仲が良かったのは、学年の中に飛びぬけて楽器の上手な人や、オタク的に音楽に詳しい人がおらず、厳しく音楽を追求していくと いうよりは、割と「お気楽な」人間が多かったからかもしれません。そんな「お気楽さ」を表す数あるエピソードから1つ。私達が1回生の夏合宿 でのアンサンブル大会でのこと。当時は、上級生やOBの方々の上手な演奏を聞くという、割と堅くまじめな会でしたが、そこに、 初心者の山田(恵)さん・私・谷林氏・山田(雅)さん・脇本氏の5人でアイネクライネを演奏しました。出演したメンバーは大真面目だったのですが、 最初の和音を弾いた途端に爆笑が起き、その後も笑いと歓声(怒号?)の中で演奏を続けました。こんな行状があって、先輩の方々から「型破りの学年」 との印象をもたれたのではないでしょうか。
= 窪川 敬二(平成元年・B37,Hr,指揮)
僕の代には僕の他には、金管奏者はバストロンボーンの中野君しかおらず寂しい限りでしたが、この中野君が素晴らしい技巧の持ち主で バストロとしてはほとんど不要とも思える程のテクニックを持っており、また2人とも目立ちたがり屋であった為、1回生の時に「1回生・金管選抜最強 アンサンブル」なるもの(2人の内から最強の2人を選抜したという意)を合宿のアンサンブル大会用に結成し、ホルンとバストロという不自然なアンサンブルを、 合宿の度に休むことなく卒業まで続けて自己満足にひたっていたのも大いなる思い出です。この「最強アンサンブル」は卒業後の秋合宿にも登場し、 「5回生・金管選抜最強アンサンブル」となっておりました。さらには我々の学年内で結婚された名合夫妻の披露宴でも演奏するという名物 アンサンブル(自分で言うのは何ですが)でした。
= 松藤 健(平成11年・B,Trb,団長)
当時神大オケには年2回の演奏会に対し、年4回の合宿(現在もそうだと思いますが)がありました。最初は年間約12万円もかかる合宿に 「なぜ年4回も??」と思いますが、4回生になるころには待ち遠しくなっていたりするから不思議なものです。(病気?)。
さて、この年、神大オケの合宿に大きな変化がありました。かねてからの合宿場に関する不満(ミックスベジタブル・胡椒・ライスは ありえん、階段の構造がおかしい等)を改善すべく、当時の合宿マネージャーであるH川氏が地道に努力を重ねた結果、奈良・三重県境の人里離れた山間に 佇む「リゾートホテル清富」を奇跡的に発掘し、これまで「ハチ北」一辺倒だった合宿の流れを大きく変えました。「快適な滞在・納得のいく食事」を 具備した合宿環境を見出したという意味で、大きな貢献だったといえます。
また、この年の秋合宿では学年コンパ中の4回生が、3回生男子によって次々と風呂に投げ入れられるという「泥酔混浴風呂過呼吸病院 送り事件」が勃発し、救急車計2台を呼ぶという合宿史上稀にみる大惨事に見舞われました。私は早朝の病院で、周囲の心配をよそに「おれオムツはか されてるやん(^o^)」とにやけていたN友氏の笑顔を一生忘れることはないでしょう。
= 中堂 壮師(平成13年・B,Vn)
「定演」と《サマーコンサート》の年2回の演奏会に対して、その倍の4回も合宿しているのは、関西の大学オーケストラの中で 神大オケだけで、毎年団員から「多すぎる・効果が無い・金がない」などの声が上がります。しかし、学生指揮者やパートのトップの要望で回数が 減ることはありません。合宿では、朝9時から夜の22時まで、食事時間以外は練習です。そして、22時以降は毎夜各種イヴェントがあります。 アンサンブルの出場者が多い時には、終了が深夜の2時になる事もあります。そのあと、酒を飲む者、徹夜で練習する者など様様です。 そして、翌朝になると「もっと寝とけば良かった」と後悔するのです。