= 高橋 照正(平成3年・E-38,Hr,指揮)
もう大学を卒業してから10年以上もの年月が経っていることもあり、当時の思い出を原稿にと依頼を受けた時は、正直 「これは困ったな」と思いました。ただ、私の消息を何とか捕まえようとされていた響友会幹部の熱意に応えなければと思い、卒業以来会うことも 無かった昔の仲間にも連絡を取りつつ、この機会に我々同期を語るに相応しい出来事・エピソードが無かったか、かなり希薄となった当時の記憶 を辿る作業を1ヶ月程費やしてきました。当時使っていたスコアを実家から取り寄せ(残っていたこと自体も奇跡に近いと思います)、何を考え、 何に苦労をし、演奏を通じて何を表現しようとしていたのか。それを思い出すヒントを探してスコアを1枚1枚めくっていて、ここかなと思うもの を幸運にも見つけることができました。この機会を借りて披露させて頂き、当時我々が味わうことができた達成感をお伝えできればと思います。
さて、その場面とは《89年・サマーコンサート》で演奏した[ベルリオーズ=幻想交響曲]の最終楽章でした。その後半に 弦・木管・金管セクションが8分の1拍ずつずれたシンコペーションを刻む部分があります。客演指揮の梅田先生から、かなり早いテンポ設定を 求められていたこともあり、ここを楽譜通り『ズレ』させることは技術的にかなり難しく、ゲネプロも含めて一度も成功させることができずに本番を 迎えることになってしまいました。
楽器を操る人間はリズムでも音程でもアーティキュレーションでも「合わせる」ということを日頃から求められているので、 『ズラせ』という楽譜の指示には生理的に抵抗したくなるのかも知れません(???)。[レスピーギ=ローマの噴水]に使われているような 4分の3拍子(=ブラスによって奏でられる華やかな大噴水を表すメロディ)と4分の2拍子(=ストリングスが受け持っていた水飛沫を感じさせる 16分音符のスケール刻み)を同時に鳴らすスコアメーキングとは違って…〈指揮も基本的にはこういう場面は出来るだけ大きな図形で振るのが 常ですので、1小節1拍振りとなり、プレイヤーに混乱を招くことはありません。因みに、指揮のレッスンではこの曲は課題曲みたいなもので、 左手で4分の2拍を振って、同時に右手で4分の3拍を振る練習をさせられました。出来ずに辛かったことをよく覚えています〉…同じ8分の 6拍子の中で4小節『ズレ続ける』というのは人間にとっては不快で困難なことなのでしょう。ところが、この『ズレ』は「幻想」という曲に とっても極めて重要な部分でした。この『ズレ』の部分の直後には、弦楽器群のユニゾンが続き、正にここから「幻想」の疾走するようなコーダが 始まるのです。このコーダを劇的なものにするためにも、弦のユニゾンを(聴衆に)聞かせなければならない、つまり、ここからクライマックスですよ というメッセージを強烈に送らないといけないわけです。出来なければ、シンコペーションで不安定さを演出してユニゾンで安定させるといった ベルリオーズの(ある意味分かりやすい)設計意図は台無しになってしまう、そういう核心の部分だったのです。そうした重要な部分を一度も成功 させずに本番に臨むというのは気持ちの悪いものでした。「あぁ、また揃ってしまうかも」というネガティブな心持は最悪なメンタルコンディション ですよね。ところが、成功したのです。いや、正確に言えば成功していたのです。当日は本番特有の高揚感もあって、みんなネガティブな心持を 忘れることが出来ていたのかもしれません。或いは、神の見えざる意志によって、みんなの集中力が異常なまでに高まっていたのかもしれません。 いずれにせよ、「幻想」は駆け抜けるように最後の主和音を鳴らし、サマーコンサートは幕を閉じたのです。
本番の翌日は恒例の反省会でした。学生会館の1室でプログラムの全てをみんなで聞くわけです。[ウェーバー=「魔弾の射手」序曲、 ドリーブ=「コッペリア」]に続いて[ベルリオーズ]。何となくあの『ズレ』の部分が近づいてくると、その場の雰囲気が緊張してくるのがわかり ました。暑い夏、みんな団扇であおぐことも止め、部屋に出入りするものも無くなり、全員で聞き入ったのです。 ダデュダデュダデュダデュダデュダデュダン!。 弦のユニゾンに入った瞬間に「うぉー!!」という歓声。拍手。拍手。拍手。
こうした成功体験ができたという事実は、コンクールのような競争の場が無かった学生オーケストラの世界ではとても重要なこと だったと思います。個人的に少々事情があって3回生の1年間休部していた私にとっても、「オケっていいなぁ。戻ってきて良かった」と思える 一瞬でした。だからこそ、今回も思い出すことができたのでしょう。シンコペーションよろしくキチンと刻み込まれていたわけです。
こんな雑感を書いていると、「もう一度戻りたい」、そんな気分になりました。神大オケに感謝。神大オケに万歳!
{付記}学生時代の私は、もともと何だったのかよく覚えていないのですが、指揮者になりたかった、いや、指揮者になりたいと 思っている自分がそこに居たという感覚でした。オケ在籍中にホルンを習いに行っていた京都市響の小山先生にお願いをして、当時、同市響で 指揮の勉強を始められたばかりの佐渡裕氏を紹介してもらったことが「のめりこむ」きっかけになったのかも知れません(当時は現在の様に 有名になるという感じではなかったですが・・・)。
また、ボストン在住期間中にもボストン郊外にある小澤征爾氏の自宅に押しかけたり、タングルウッド音楽祭に入りびたったりと、 殆どストーカーまがいのこともやったりしていました。やっぱり、「好きなこと」には抗し難いものですね。
= 大田 健(平成3年・S,Vn)
《夏:魂》。最大勢力であるはずのヴァイオリンパートは駒不足。大学入学後に楽器を始めた者も多い。ヴァイオリン以外も然り。 諸先輩方が維持されてこられたレベル::それを我々が崩してしまうかもしれない。そんな不安を抱いたまま《90年・サマーコンサート》本番の 日を迎えました。
曲目は[サン・サーンス=交響詩「死の舞踏」、ドボルザーク=チェロ協奏曲、ブラームス=交響曲・第1番]。しかし、そんな事前の 心配はまったくの杞憂に過ぎなかった・・・。「死の舞踏」の三宅さんのバイオリンソロ。凄い!。物事は最初が肝心。まさにそのとおり。 ドボルザーク協奏曲は日本チェロ界の重鎮、林 峰男先生の妙技。このようなビッグネームの方と共演できるとは。
そして、[ブラームス=交響曲・第1番]。あれ?。林 先生がチェロパートの最後列にいるぞ。おおっ!。史上最強の助っ人。 さっきまで舞台のど真ん中でソロを弾いていた方が、ステージの端っこ。しかもプルトのインで楽譜めくりまで・・・。
「よっしゃ!。ええ演奏会になるで!」。
演奏はというと、出るべき箇所で出ない、出るべき音が出ない・・・ミス多数。けれども、結果的に、それらは絶頂への演出の ひとつに過ぎなかった。第4楽章最後のC音の余韻が残る中、ユリ先生が小さくうずくまった。一般聴衆が両手で顔を覆って泣いた。 なんだか、成功したようだ。今、思います「あれは歴史的名演だったかも?」。
*平成2年サマーコンサート・プログラムより= 千葉
今回は丁度、七夕の日。皆様とのお出会いは、年に1・2度ですから、丁度、牽牛星と織女星の出会いに似ています。
今宵のブラームスの交響曲では、普段、オーケストラの中では脇役として不遇の身を嘆いているティンパニーが、
第1楽章の冒頭から延々と鳴り響きます。一体何回叩かれるのか、数えてみるのも一興でしょう。
《冬:幸福》。鈴の音が聴こえる。天上からの音楽。あの年のクリスマスは【第40回定期演奏会】で[マーラーの交響曲・第4番]。 大学オケではなかなかやらない曲。随所に各パートのソロがありましたが、まあなんとかなったと思います。第4楽章になると、なんとも言えない安堵感、 幸福感に包まれました。貴重な経験でした。ありがとうございました。
しかしながらマーラーさん。なんてことを考えるんですか?。ソロ用バイオリンの調弦を1音ずつ上げるとは。1本だけならまだしも、 4本全部というのは酷ですよ。楽器が悲鳴をあげてます。何本弦が切れたことか・・。嫌気がさしました、ほんとに。それから、特に印象的だったのが、 クラリネットのベルアップ。あれは上品とは言い難いものでした。そのような効果を狙ったんだと思いますけど。でも、おかげさまで、クラリネットは、 床への反射音がミックスされて特有の美しい音が出ることが判りました。
ところで、この[マーラーの4番]。選曲会議の段階では、あまり有力ではありませんでした。選曲段階では[シベリウスの 交響曲・第1番]が最有力でした(実は夏も同様でした)。土壇場になって逆転されてしまったのです。その陰には、強力な根回しがあったようです。 [マーラーの4番]を推した方の熱意は強力でした。私は今度こそ[シベリウスの1番]がやりたかったのですが・・・。敗北しました。 とは言え、[マーラーの4番]をやれて良かった。今でも誇りに思っています。[シベリウスの1番]ではあの幸福感を味わうことはできなかった でしょう。
= 山内靖雄(平成3年・A,Cb,指揮)
私の場合、記憶を音楽に頼る、ということをします。この原稿を書くにあたり、大学生当時の記憶を呼び起こすため、 しばらく聴いていなかった思い出の曲のCDを引っ張り出してきました。
まずは、[ウェーバー=「魔弾の射手」序曲]。私が3年生になって、初めて下振りを任された《89年・サマーコンサート》 の序曲です。演奏時間の短い曲ですが、自然を思わせる静かな序奏、そして荒しさと華々しさが同居する主部からなる、ドイツオペラ序曲の本道 ともいえる曲で、その響きを出すことに苦心しました。そして[ベルリオーズ=幻想交響曲]。この曲は[ベートーヴェン=「第九」]から6年後 の作品とは思えない、大胆な構成、奇抜な管弦楽法を駆使した大曲です。また、世のほとんどの男性なら経験する、あこがれの女性への恋慕・失恋が 全曲を貫くテーマとあっては、多感な大学生が燃えないはずはありません。梅田俊明先生のタクトのもと、大熱演になりました。特筆すべきは、 第5楽章に(特に日本の)プロのオーケストラでさえ、時たまリズムが合っていない演奏をされる部分があリます。そこをぴったり合わせることが 出来たことで、演奏会後、皆で大喝采しました。プロと違って、みっちり曲を仕上げることの出来る学生オケならではなのでしょうか、或いは、 神大オケが一体になっていた証しでしょうか。
【第39回定期演奏会】では、磯貝裕子さんをソリストとして迎えて、サブメインの[グリーグ=ピアノ協奏曲]の下振りを 任されましたが、協奏曲は初めてでしたので、普段の練習では、オーケストラの練習なのか、私の指揮の練習なのか分からない面も多く、 上級生のパートトップの方々には迷惑をおかけしたと思います。メインは大学の大先輩の岡田 司先生による[チャイコフスキー=交響曲・第6番「悲愴」]。 当時のチャイコフスキーの精神状態を表しているのか、それまでの交響曲は統一感のある作風であったのに対して、「悲愴」では1つ1つの楽章は ロシアもの特有の迫力のある充実した内容になっているものの、全体としては支離滅裂な4つの楽章から成っているため、逆に差し迫った緊迫感を 与える曲です。この曲の持つ魅力は、美しいメロディ、そして何より第4楽章の悲愴感なのでしょうが、この曲を演奏して初めて別の魅力を感じました。 曲の最後の音が消えてからの音のない間、ここにこの曲の最大の魅力があるのではないかと。演奏会の本番、まるで心臓の鼓動が止まるような雰囲気で この曲は終わりますが、客席だけでなく、舞台上で演奏していた私達も他の曲では感じることのなかったこの独特の寂寞感を感じました。音楽という ものは再現芸術ですので、鑑賞する時よりも演奏する時により深く作品に触れることになります。その過程で、過去の天才たちの偉大な、 そして時には狂人的な魂に触れることになるのですが、あの演奏後の間は、それを感じ取った一瞬だったのかも知れません。
4年生になって、本業の学部の卒業研究(選りによって一番厳しい研究室に入ってしまいました)と学生・正指揮者の両立が困難を 極める中、パートトップをはじめとする同級生の協力なしでは成功し得なかった1年間を迎えました。《90年・サマーコンサート》では 中村ユリ先生を迎えて、ドイツ音楽の本道、[ブラームスの力作=交響曲・第1番]に挑みました。それまでにブラームスの交響曲や19世紀の ドイツものをいくつか経験していましたので、曲づくりは難しくないだろうと思っていたのですが、さすがに、そうはうまくいかず、中村先生 には苦労をおかけしました。本番ではサブメインの[ドボルザーク=チェロ協奏曲]のソリスト、林峰男さんがチェロパートの後ろの方のプルト で参加してくださいました。演奏中、ピッチの悪かったコントラバス(私もその一員でした)の方をジロッと睨まれたことは今でも忘れることが できません。また、余程大きなオーラが出ていたのでしょうか、演奏会後、「ずいぶん貫禄のある学生が後ろの方でチェロを弾いていましたね」 とアンケートで指摘されたほどです。
そして4年間の集大成というべき【第40回定期演奏会】のメインは[マーラー=交響曲・第4番]。楽器構成は大編成ですが、 小規模アンサンブルを大きくしていって交響曲に仕上げた趣のある曲ですので、演奏に当たっては、オーケストラを鳴らす、というよりも各パート のアンサンブルが重要になります。それに加え、マーラー特有の細かなアゴーギク(リズムの緩急)、それでいて全体の流れも必要です。天国的な響き、 薄いハーモニー、繊細なメロディー、などが要求される難曲です。この難しさゆえに、この曲が大学オーケストラであまり取り上げられません。 私の学年は最後の曲としてこの難曲に挑んだのでした。このような曲を作り上げるために、パートトップによるパート練習で、細かく楽譜をさらう ことが、地道な作業ではあるのですが、曲作りのために大きな力になりました。私は学生指揮者として、細部よりも曲の流れを作ることに専念する ことができました。そして、田中一嘉先生の指揮、阪口菜里さんの独唱で、本番は秀演となりました。他大学の友人達は、私に対するお世辞も あったのでしょうが、「いろんな大学の演奏を聴いたが、その中で一番だった」と皆口を揃えて言ってくれました。
私が大学4年間を過ごした時期は、日本全体がバブル絶頂期を迎えて幸福的な雰囲気に包まれている時期でした。そんな中、 周りの誘惑に目を奪われず(若干の例外はもちろんありますが)、私達はオーケストラ活動に没頭、集中し、演奏会に臨んできました。学生指揮者の 最も大事な仕事は、荒削りで奏法もまちまちな演奏者の方向性を統一し、客演指揮者の要望する演奏に導くことにあります。しかし、「こうしたい」 と私が思っていたものが、私の力不足、努力不足で皆に伝わらず、時に空中分解しそうにもなると、居酒屋「八悟」、定食屋「吉田」、 ボウリング場「グランド六甲」などで体勢を立て直し、なんとか役割を果たすことができました。
思い出の曲を聴く毎に思い出す、アツい思い、ショッパイ思い、ヘコんだ思い、いろんな思いが交錯して曲を聴いている どころではなくなることもありますが、いずれも今の私にとって学生時代に得た大きな無形財産となっています。
= 稲葉 宏己(平成4年・J,Vn,コンサートマスター,指揮)
私ども平成4年(1992)卒の学年は、指揮者・中村ユリ(現・新田ユリ)先生の指導の下、《91年・サマーコンサート》 と【第41回定期演奏会】を行いました。
サマーコンサートは、[チャイコフスキー=交響曲・第5番]をメインに、[ラフマニノフ=ピアノ協奏曲・第2番、 モーツァルト=「魔笛」序曲]という曲目で、冬の定演は、[ブラームス=交響曲・第4番、ワーグナー=「マイスタージンガー」第1幕・前奏曲、 メンデルスゾーン=交響曲・第5番「宗教改革」]という、ダブルシンフォニーとなる、こってりとした選曲となりました。
そのいずれもタクトを振って頂いたユリ先生は、我々の2学年上の[幻想交響曲]がメインの演奏会であった《89年・ サマーコンサート》で梅田俊明先生のアシスタントとして、神戸大学交響楽団にお越し頂いていましたが、その鋭い指摘と「ナニヤッテンネン!」 などという覚え立ての変な関西弁を駆使しての忍耐強い指導が印象的で、私どもの学年では、1年を通じてユリ先生にご指導頂くようお願いした ところ、先生からもご快諾を頂けたのです。ユリ先生は、演奏会直前の練習だけでなく、「美方パレス」の合宿や、はたまた「八悟」の飲み会にも ご乱入頂いて、技術的指導力だけでなく、精神的指導力?をもいかんなく発揮して頂きました。
練習中は、ときおり指揮棒が「前に飛んだり」(ふがいない演奏に対する怒り?)、「後ろに飛んだり」 (ふがいない演奏に対する諦め?)しましたが、各プレイヤーも、少しでもユリ先生の求める音楽に近づきたいと努力して、 本番のステージでは全力を尽くしたと思います。
私どもの学年は丁度、元号が昭和から平成に代わる時期に神戸大学交響楽団に入団し、大方の団員は、授業そっちのけで、 学生会館2階にたむろし(必ずしも練習とは結びつかないことも多かったのですが・・・)、挙げ句の果てに、単位不足に陥る団員も続出しましたが、 まさにバブル経済真っ盛りの華やかな時期とともに、神戸大学交響楽団の歴史を歩んだ学年ではないでしょうか?
= 本田 義明(平成5年・E,Tbn,団長)
演奏会のメインになる曲の選定は、3回生の後期からサマーコンサートの選曲、4回生になってからはサマーコンサートの練習と 並行しつつ定期演奏会の選曲を行うというのが通例でした。が我々は両演奏会のメイン曲を1度に決定しました。1度に2つのメインを決定することで、 その後の選曲会議に費やす時間を減らし、その分効率的な練習が出来ると考えたからです。白熱した議論と投票の結果、シベリウスの1番、 ベートーヴェンの「運命」等の対抗馬を押しのけて《92年・サマーコンサート》は[シューベルト=交響曲・第9番「グレート」]。 【第42回定期演奏会】は[ブラームス=交響曲・第2番]とすることで決まりました。今から考えれば選曲会議に費やした労力、 時間は多大なものでしたが、何しろ大学生活の最後の1年間を掛けた選曲でもあることから当時は皆必死になっていたと思います。
客演指揮者として、サマーコンサートは田中一嘉先生、定期演奏会は飯森範親先生にお願いしました。上記のような経緯で飯森先生に 客演指揮のオファーをした段階では定期演奏会のメインは既に[ブラームス=交響曲・第2番]に決まっていました。メインがブラームスということに 対して飯森先生は「ブラームスは振りたくない」と仰っておられ、我々もやむ無く他の指揮者を探そうとしていたところ、当時渉外マネージャーであった 立村君の尽力でメインは[ブラームス=交響曲・第2番]とする代わりに、サブメインを飯森先生の振りたい曲とすることで何とか客演して頂く了解を 取り付けました。
その様な事情で、定期演奏会のサブメインは必然的に飯森先生の振りたい曲をやることになりました。そこで飯森先生から 「ヒンデミットをやりたい」との我儘・・・いやいや、御提案があり(ヒンデミットの作品のなかでは比較的)メジャーである「画家マチス」と 「ウェーバーの主題による交響的変容」のどちらかをサブメインとすることになりましたが、どちらも難曲であり「ウェーバー〜」の方がより 難しいということであっさり落選。「マチス」に決定しました。まあ通常の選曲会議の手順を踏んでいればまず取り組む事はなかったでしょう。
神戸大学交響楽団の歴史の中で『ザ・シンフォニーホール』で演奏会を行ったのは我々が最初となる訳ですが、 最初は尼崎アルカイックホールか神戸文化ホールでと考えていました、と言うよりもシンフォニーホールなんて恐れ多くて考えも しなかったというのが正直なところです。 ザ・シンフォニー で演奏会をやろうと言い出したのは、学生指揮の江田君だったと記憶しています。最初は費用の問題やマネージメントの難しさから反対の声 も多かったのですが、4回生を中心にシンフォニー推進派が次第に増加し、ついにシンフォニーホールで演奏会を開くことになりました。 ただ、諸先輩方が築いてくだ さった団の繰越金が払底することとなり、後輩の皆さんにはご迷惑をお掛けしました。また慣れないホールでの本番であるにも係わらず、なんとか演奏会 を開催することが出来たのは高田君を始めとする各マネージャーの手腕に依るところ大であったと今でも感謝しております。シンフォニーホールでの演奏会 の当日、ホルンの増見君と食事を取りに行きました。近所の定食屋さんに入ったんですが、増見君が注文したのが「うどん」。僕は焼き魚の定食を食べ ながら「今から本番やけどそれで足りるの?」と言いましたが、本人は「炭水化物はすぐエネルギーに変わるから云々・・・」。演奏会終了後に本人から 「実はあの時は緊張で全然食欲がなかった」と明かされました。彼はこの後にやってくる[ブラームス=交響曲・第2番]の冒頭のホルンソロに緊張し 食事も喉を通らない状態だったというわけです。肝心の演奏の方は緊張を微塵も感じさせない堂々たる見事なソロでした。
《92年・サマーコンサート》で演奏した[シューベルト=交響曲・第9番「グレート」]は、あまり学生オケでは採り上げない曲 ですが、実際に演奏してみて改めてスゴイ曲であることを認識しました。シューベルトというと、「柔らか」なイメージを持ちがちですが「グレート」 は極めて硬派且つ劇的で演奏者の興奮を掻き立てる魅力的な曲でした(聴いてる方は一寸退屈かもしれませんが・・)。若干オーケストレーションに 難があり、曲が長く、くどい面もあることは否定できませんが、間違いなくロマン派交響曲の傑作だと思います。思いつくままに当時のエピソードを 書き並べました。
最後になりましたが苦楽を共にした同輩、後輩の皆さん、御支援頂いた諸先輩方、神戸大学交響楽団に係わる 全ての方の御多幸をお祈り申し上げます。
* 『ザ・シンフォニーホール』が完成して満10年。ようやく神戸大学交響楽団の定期演奏会が行われたのは、喜びにたえません。
演奏の出来・不出来は、勿論、団員の日頃の練習の結果ですが、演奏するホールによっても大きく変わるものです。世界的水準に初めて達し、
その後の日本の音楽ホールの模範ともなったこのホールに響き渡った音色の素晴らしさは、期待以上のものでした。特に難しいヒンデミットの作品
[交響曲「画家マチス」]が、あんなに楽しく聴けようとは思っても見ない事でした。昔、作曲者自身が指揮したウィーン・フイルの演奏を聴きましたが、
少しも面白くなかった記憶があります。客演の飯森範親先生は、あまりアマチュアのオケの指揮はされない様ですが、
神大オケと相性の良さを感じます。
= 千葉
= 森 康一(平成7年・J,Hr,指揮)
平成5年(1993)、先輩の上野さんとのコンビで3回生の学生指揮者として初めて下振りをまかされたのが、現田茂夫先生をお迎えした 《93年・サマーコンサート》でのチャイコフスキー「白鳥の湖」抜粋でした。先輩方がトップの位置をしめておられる中、自分も曲をしっかり研究 して曲作りのリダーシップを執らねばと言う思いで緊張していました。下振りのため、演奏会本番ではこの曲には参加していませんが、打ち上げで 先輩方がねぎらって下さったのが大変嬉しかった事を思い出します。
その年の冬、私の指揮者生活の中でその後に大きな影響を与える[ワグナー=トリスタンとイゾルデ]に出会いました。 【第43回定期演奏会】では[マーラー=交響曲第9番]と共に難曲ぞろいの演奏会となりましたが、客演の飯森範親先生の本当に熱心なご指導の もと(夏休みの初見大会から登場)、この曲の下振りを通じ、ゆっくりな曲をたっぷり振るという、自分にとって苦手分野だったものを 克服できる機会を得ました。
また定期演奏会の前という微妙な時期の出場を3回生のマネージャーが決めた時快く同意して下さった、当時の高田団長をはじめと する4回生の先輩方には本当に感謝したいです。その後の冬の定期演奏会は、[トリスタン、マーラー=第9交響曲]の持つ一種独特な雰囲気で、 客席にまで涙が伝播するという感じで、非常に思い出深いものとなりました。
【閑話休題】= 私(千葉修二)の無責任・音楽雑感
マーラー=交響曲・第9番を定演で演奏すると聞いた時、学生オケの癖に、何たる無謀な事をと思いました。それは1970年に バースタイン=ニューヨーク・フィルで聴いた名演を想い出したからでした。それまで、この曲はほとんど演奏された事が無く、当夜の聴衆の大部分に とっても初めてであったと思います。曲が終わって数分間、まるで金縛りにあったように誰も拍手をしないのです。知ったかぶりで、真っ先に拍手を する人間が必ずいるものです。が、この時は本当に長い長い感動の時間が流れました。いまだに、あの時の感動を超える演奏には再会出来ていません。 が、神大オケの演奏は、アマチュアの域を越える素晴らしいものであったと思います。その陰には、客演の飯森範親先生の半年に亘るご指導があった からだと思います。ちなみに、小沢征爾のボストン響・最後の演奏会はこの曲で、彼は泣いている様に見えました。同じ「第九」でも、 歓喜を歌うベートーヴェンとの違いです。
また、この年の12月12日、東京・芸術劇場で行われた【第8回・全日本大学オーケストラ大会】に初参加しました。 この大会は《大学オーケストラの全国的交流を図ることにより、大学オーケストラの一層の活性化を目指すとともに、演奏の真価を世に知らしめて、 音楽愛好家の育成に努め、わが国の音楽文化の発展に寄与するため》、昭和60年(1985)、ソニーの大賀社長によって基金が設立され、参加費として、 当時で一団体に300,000円が支給されました。毎回、出演希望大学の中から抽選で約15校が選ばれ、一堂に会して演奏を行い、優秀団体が表彰される ことになっていました。
飯森先生の薫陶も功を奏し初出場した神戸大学交響楽団は、[ワグナー=トリスタンとイゾルデから「前奏曲と愛の死」]を演奏し、 大会史上初の〔講評委員の全会一致での最優秀賞〕を頂くという予想外の高評価でした。実は、密かに私自身は前日の練習で振っている時に非常に良い 感触は得ていたのですが、当日上京という、お上りさん状態の慌ただしい様子から全く余裕がなく、夢中で本番を迎えており、訳がわからないまま演奏と いう感じでした。逆にその雑念のなさが却って良かったのかもしれません。振り返りますと、神戸大学のオケを東京の方にも知っていただけるのに 役立てたかな、という気がします。自分があの舞台で振ることができたのは非常に幸運でした。また、定期演奏会の直前と言う時期に、快く出場に 同意して頂いた4回生の皆様にも感謝せねばなりません。翌年には、優秀団体として特別演奏の委嘱を受け、さらに、神戸で行われた平成7年(1995)には、 震災と地元と言うこともあって優先的に参加出来ました。
*全日本大学オーケストラ大会・余話。
時間的に超過密スケジュールのため、早朝から新幹線に乗り込み、始めて見た青空をバックにした富士山に大騒ぎ。会場に着くなりすぐ演奏。
7・8人の講評委員以外お客さんの姿はほとんど見えず、他校の楽器ケースや鞄ばかり‐‐と言う印象で、演奏もそれ程良かったとは思いません
でしたが、翌日、結果を聞くと、《講評委員の全会一致での最優秀賞》獲得にビックリ。特別演奏の委嘱を受けた翌年の第9回は
[プロコィエフ=ロメオとジュリエット」から「タルボットの死」]を演奏しましたが「今回は一寸難し過ぎる曲だったね。
去年の曲の冒頭のチェロは背筋がゾクゾクする程に素晴らしかったよ!」と講評委員の方から言われました。
= 竹内和之(平成7年・T, Vn)
* 神大オケが学生オケのコンクールに優勝したとの報せがあり、池袋で10大学の出演する選考会を聴いた。その時の大学オケの
レベルの高さには昔日の感があった。出演大学の1つは、私の桐朋学園の同門が振っており、特に注目していたが、最もプロに近い技術だったのに
4校の優秀オケには残れなかった。審査基準が既に技術でなく、音楽的内容に重きを置いていたと分かった。前年度の最優秀大学という事で最後に演奏
した神大オケは一段と優秀で、これがアマチュアかと耳を疑った。神大オケには統合された音の響きをベースにして、部分の表現でなく、長く説得力の
ある音楽が作られていたのを記憶する。プロのオケが不要とは云わないものの、神大オケくらいになればすでにオケに求められるひとつの役割を十分に
果たしていると感じた。
= 中島良能(昭和38年・B11,Vc,指揮)
翌平成6年(1994)、松尾葉子先生をお迎えする《サマーコンサート》に向け、4回生となった私が担当したのは[チャイコフスキー =交響曲第6番「悲愴」]の下振りと、[リスト=ハンガリー狂詩曲第2番]の本番指揮でした。最高学年となり責任が増すと同時に、非常にタフで練習 熱心、研究熱心な同期の仲間達との日々は、楽しくも緊張感いっぱいなものでした。客演の松尾先生は「時には厳しく、また時には厳しく」と常に我々に 妥協せず高い水準を求められ、叱られたこともしばしば。そんななか迎えた本番での、[R.シュトラウスの「ドンファン」](まさに一気呵成!)、 そして「悲愴」は松尾先生の真骨頂が見事に発揮され、プレーヤーの側も自然と引き込まれてしまいました。他方定期では初めての本番での私の指揮は、 プレーヤーに動揺を与えるほどの拙いものでしたが、トップをやっていた後輩達は、なんとかよい方向にいくようにとまとまってくれ、 非常に救われました。
そして最後の【第44回定期演奏会】へと向かいます。この演奏会では天沼裕子先生をお迎えし、メインに[プロコフィエフ= 「ロメオとジュリエット」抜粋]、サブに[ブラームスの交響曲第3番]、オープニングには同じく[ブラームス=「大学祝典」序曲]をとりあげ、 私はサブの下振りと「大学祝典」の本番指揮を担当することになりました(メインのホルンも私の担当)。サブで[ブラームスの交響曲]というのは荷が 重かった?という感も否めませんが、選曲へかける意気込みは強かった記憶があります。天沼先生はバレエがお得意で、まさに「ロメオとジュリエット」 はうってつけでした。場面ごとに棒の表情、顔の表情が自由自在に変容し、劇的な場面では般若のような(失礼??)表情で我々をリードして下さいました。 本番指揮の[「大学祝典」序曲]は経験値も上がり?比較的落ち着いて指揮できたかなと思っています。やるだけのことはやった、 そんな充実感をもって引退となりました。
ところで1994年のこの2回の演奏会に向かっての練習中、私は2度にわたって戦線離脱してしまいました。6月と11月に虫垂炎に なり、2度目は手術入院を余儀なくされ、団員を不安にさせるとともに、特に同輩・パートの後輩・そして1つ後輩の指揮者川嶋君には多大な心配とご 迷惑をおかけしてしまいました。最高学年の指揮者不在という事態で逆に団員に結束が生まれた?と都合の良いように解釈もできますが、やはり入院中 は気が気ではありませんでした。退院翌日、秋合宿に強行参加したのを思い出します。
そして冬の定期演奏会が終わったちょうど1ヶ月後、あの阪神・淡路大震災を経験しました。引退した直後の我々は卒業を控えた時期で、 みんな試験の直前でした。竹内(前)団長は原付をとばして団員の安否確認に飛び回り、仁司君をはじめとする新しいリーダー達もみんなの無事を願って 必死の思いでした。なかには危ないところ危機一髪で助かった団員もいましたが、とにかく全員無事との連絡をもらったとき、何とも言えない緊張が 一気に解ける様な安堵感をもちました。
オケの4年間は大学生活そのものと言ってもいいほどですが、学年があがるに従って密度は濃くなりました。当時の先輩・後輩・ そして同期の仲間は現在でも共に音楽を作る大切な仲間です。神戸大学交響楽団の団員であったことに誇りを持ち、今後もその仲間を大切にして いきたいと思います。またその時々の現役団員が音楽に対してひたむきに取り組んでくれることを願ってやみません。ますますの神戸大学交響楽団の 発展を祈りつつ!!
= 仁司 章(平成8年・E,Tr)
私が団長になって1カ月に、それは起こった= 平成7年(1995)1月17日‐‐‐。阪神大震災である。阪神間の交通は麻痺し、 大学自身も機能を停止した。いくつかのホールは避難場所となり、演奏会どころではなくなった。奇跡的に団員全員は無事であったが、 団の活動自体が危ぶまれ、7月のサマーコンサートを開くかどうかの意見が分かれた。その中で、ある団員の発言に、目から鱗が落ちる気がした。
『勿論、全曲を予定通りやろう。こんな状況だからこそ、神戸大学のオーケストラ・神戸自身が元気でやっていることをアピール しよう。音楽には、そういう力があるんだ』。私は今まで、演奏会は私達の自己満足の延長線上にあり、社会に対して持つ意味合いについては、 あまり考えていなかった。が、この時こそ、音楽を通じて何か出来るのではないか、と言った従来の大学生活・オーケストラ活動で欠けていたもの を見出すことが出来た気持ちがした。
練習期間の不足、団員の精神的ダメージなどあったが、結局、多少の変更をしたものの、予定通りに《95年・サマーコンサート》を 開く事が出来、このことを通して、団員の中に今までになかった何かが発芽したように感じたのは私だけだろうか?。
大学オケは、4年間でメンバーが代わり、演奏会毎に指揮者が変わると言う非常に流動的なものであるが、その中で、 神大オケに一貫して流れる精神的なものの形成に、この演奏会が役立ったならば幸いである。
*【阪神・淡路大震災】
(平成7年(1995)1月17日午前5時46分)淡路島の北部の深さ14キロの地点を震源地として起こったマグニチュード7.3。
六甲の活断層による内陸・大都市直下型の巨大地震。死者=6,400人。負傷者=44,000人。被害家屋=25万戸。高速道路・新幹線架橋の倒壊、
電力・ガス・水道の停止が生じた。ボランティア元年と言われ、全国から述べ約200万人が参加した。
= 川嶋 雄介(平成8年・Ob,指揮)
4回生でオケ生活最後の1年は、あの阪神大震災で始まりました。そこには様々な問題が山積していました。六甲の地で、 生きることに必死になっている人が多いのに、私たちはこのまま音楽を続けていても良いのだろうか…。みんなが再び揃って練習を始めることが できるのだろうか…。演奏会の開催は…。私たちの存在意義は…。おそらく私たちの誰もが、こんな事態に遭遇するとは、思ってもみなかったと 思います。
さらに、その年の《95年・サマーコンサート》のプログラムは、[フランク=交響曲ニ長調、ストラヴィンスキー=バレー音楽 「火の鳥」、ボロディン=「イーゴリ公」序曲]と、とても意欲的で難しいものを組んでいました。、特にストラヴィンスキーは今までまったく未体験の 作曲家だったので、一時は、プログラムを1曲減らして完成度を高めたほうが良いのでは…という議論すら起こりました。結果的には、私たちが オーケストラ活動を続けることで、『神戸の皆様に、少しでも元気づいて頂くことができれば』と、学生会館の修復を待って、練習を再開することに なりました。サマーコンサートのプログラムも変更せず、お客様には短期間ではあったが、一生懸命やった練習の成果を聞いて頂こう、とみんなの 意見もまとまりました。このようにして、とにかく練習を再開することができ、サマーコンサートを開催する目途もたちました。しかし ストラヴィンスキーのむつかしいことといったら!。もちろん他の2曲が決して易しかったわけではありませんが、音を並べるのにまず一苦労でした。 1学年下の学生指揮者・黒木さんが、上手くいかずにごねる私たちをなだめすかして、一生懸命1つの曲に纏め上げていってくれました。このように 困難が多かっただけに、サマーコンサートが無事終了した時の感慨はひとしおでした。指揮者の中村ユリ氏から、カーテンコールで頂いた1輪のバラ がとてもうれしかったのを覚えています。
私たちにとって最後の演奏会となる【第45回定期演奏会】は、またしても、物凄い曲をやることになってしまいました。 [ホルスト=組曲「惑星」]です。私にはこのような曲をやる、という発想自体がなく、選曲をしている間も、実現することはないだろう、 と思っていただけに、「惑星」がメインに決定した時は、なんだかしばらくその状況が信じられずに、呆然としていました。ちなみに他の2曲は、 [シューベルト=「未完成」交響曲、ベートーヴェン=「エグモント」序曲]と古典の渋い曲が並んでいただけに、当時、今よりもずっと精神論的・ 観念論的だった私は「ここでブラームスの交響曲をやれば渋く決められるのに…」と何度となく悔やんだものでした。今になって思えば、 それまで金管ばかりで、ただただやかましいだけと思っていた「惑星」に対するイメージがずいぶんと変わり、それまで知らなかった繊細な オーケストレーションに気付くことができたのは素晴らしいことでした。
定期演奏会の客演指揮の蔵野雅彦氏は、大変にエネルギッシュな方で、ここぞ、というときにバーンスタインよろしく飛び上がる のでした。本番でも「おそらく先生はここで飛び上がるにちがいない」と思っていた所で、やはり飛び上がられたので、本番中にもかかわらず、 ひとり喜んでいました。それにしても、ホルストはストラヴィンスキーに勝るとも劣らない難しさで、練習の指揮を担当してくれた黒木さんが、 われわれの抵抗にもめげず頑張ってくれました。私の練習指揮は、サマのフランクと冬のシューベルトでしたから、難しい曲の練習をすべて黒木さんに 任せてしまい、自分は楽をしていたような気がします。ごめんなさい、そしてありがとう、黒木さん!。
激動する神戸での、めまぐるしい年でしたが、諸先輩の築き上げてこられた神大オケの歴史に、 私たちも一ページを刻むことができたのは、大変にうれしいことでした。
= 黒木 靖子(平成9年・T,Vn,指揮)
私が本格的にオケに参加したのは、平成5年(1993)12月26日、神戸文化大ホールで行われた【第43回定期演奏会】から だった。[ワーグナー=楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲とイゾルデの死、マーラー=交響曲・第9番]という難曲への挑戦である。 必死で練習して迎えた演奏会当日、団員を1つにまとめた団長・高田さんの「情熱」という名言は忘れられない。この言葉に導かれ、私達1回生も それぞれ自分なりの「情熱」を表現すべく演奏に臨んだ。
《1994年・サマーコンサート》の曲目は[リスト=ハンガリー狂詩曲第2番、R・シュトラウス=交響詩「ドン・ファン」、 チャイコフスキー=交響曲・第6番「悲愴」]だった。この演奏会では、とにかく松尾葉子先生の印象が強烈で、「ドン・ファン」では嵐のように 駆け抜け、「悲愴」でも、ぐいぐいとオケを引っ張っていく、本当にパワフルな先生だった。4回生の先輩方を中心として積み重ねた緻密な練習が、 松尾先生のパワーによって大きな集中力に結晶した、勢いのある演奏会だったと思う。
平成6年(1994)の【第44回定期演奏会】の曲目は[ブラームス=大学祝典序曲と交響曲・第3番、プロコフィエフ=バレエ音楽 「ロメオとジュリエット」より]。弾けば弾くほどその美しさ難しさが身にしみるブラームスと、難しいけれどだんだん曲の魅力にはまっていく プロコフィエフ。天沼裕子先生の、言葉だけでなくタクトだけでなく、体と顔を使って(時には鬼のような顔で!)音楽を伝える姿がとても 印象的だった。
次の演奏会に向けて練習を開始したばかりの1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。一時は団員の生死もわからない状態 だった。幸いにも団員の無事が確認され練習を再開することができたが、全員が震災前と同じ環境、同じ気持ちでオケ活動に取り組めたわけでは なかったと思う。私自身、震災直後は楽器を弾く気に全くなれなかった。そんな状況の中、手探りでの練習再開だった。
《1995年・サマーコンサート》は7月7日に尼崎アルカイックホールで行われた。曲目は[ボロディン=「イーゴリ公」序曲、 ストラヴィンスキー=バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)、フランク=交響曲ニ短調]。私が初めて下振りした「火の鳥」は譜面がやたらと難しく、 練習では「さらっておいて下さい」としか言えないこともしばしばだった。震災の影響で練習期間が短いなか、何とか演奏会を迎えられたのは、 トップの先輩方の努力と中村ユリ先生の辛抱強い指導のおかげだったと思う。
第45回定期演奏会】は、平成7年(1995)12月9日に[ベートーベン=「エグモント」序曲、シューベルト=交響曲・第8番 「未完成」、ホルスト=組曲「惑星」]を演奏した。「未完成」では、何といっても藏野雅彦先生の指導が素晴らしかった。独自の解釈をわかりやすく 説明してくださり、とても前向きで生き生きした「未完成」が生まれたと思う。私が下振りをした「惑星」は難しい曲だったが、とても魅力的な曲で 先生のキャラクターにもぴったり合っていて、気持ちよい演奏ができた。藏野先生もかなり気持ちが良かったらしく「天王星」で見せた大ジャンプは 指揮台にダメージを与えるほどだった。
《1996年・サマーコンサート》は7月5日、尼崎アルカイックホールで行われた。神大オケの歴史上初めて、 海外(ロシア)から指揮者を招いての演奏会だった。発案者である藏野先生と3回生のマネージャー達の多大なる努力によって実現されたこの 新しい試みは、私たちにとって忘れがたい経験となった。演奏会の曲目には[メンデルスゾーン=劇音楽「真夏の夜の夢」序曲。ロシアの作品と いうことで、ショスタコーヴィチ=交響曲・第9番、チャイコフスキー=交響曲・第8番]を選んだ。指揮者プラソロフ氏の来日までは、 どのような演奏になるのか全くわからず、本番約1週間前の初合わせを不安のうちに迎えた。演奏は、私たちの予想を裏切り、厳格なまでに楽譜に 忠実なものだった。そして、言葉にするのは難しいが、CDなどで聴き慣れた演奏とは、何かが決定的に違っていた。正体不明の何かを頭から ガツンと叩き込まれるような感覚で、私たちの演奏は1週間という短い期間で劇的に変わって行った。今思えばすごい集中力だったが、その結果、 本番では指揮者と一体になった演奏ができたと思う。本番での圧巻はアンコールだった。カーテンコールで出てくるたびに指揮台に上がり、 1曲しかないアンコール曲を繰り返し演奏するのである。最後にはネタが尽きてチャイコフスキーまで演奏し、そこでようやく幕が降りたのだが、 聴衆はずっと暖かい拍手を送り続けてくれた。私たちにとっても、おそらく聴衆にとっても、満足感の残る演奏会だったと思う。
【第46回定期演奏会】は、平成8年(1996)12月13日に、ザ・シンフォニーホールで行われた。曲目は [ワーグナー=「ニュールンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、レスピーギ=交響詩「ローマの噴水」、ブラームス=交響曲・第1番]。 金 洪才先生の端正な指揮のもと、以前から演奏会をしたいと願っていたザ・シンフォニーホールの素晴らしい響きの中で、気持ちよく 演奏することができた。
この定期演奏会が私たち4回生にとって最後の演奏会だったわけだが、実はもう1度だけ演奏の機会が残されていた。 演奏会の2日後に東京芸術劇場で開催された「第11回・全日本大学オーケストラ大会」で[ブラームス=交響曲・第1番]の終楽章を演奏したのだ。 これが、私たちの本当に最後のステージになった。本番当日、芸術劇場のステージで指揮をしながら、最後のコーダの部分で急に「もう2度と、 このメンバーと一緒に演奏することができない」という思いが込み上げてきた。そして、涙が止まらなくなってしまった。最後の最後になって、 オケでの活動が自分にとってどれほど素晴らしいものだったかということに気付いた瞬間だった。
* 《96年・サマーコンサート》では、大学オーケストラでは珍しく、外国からの指揮者を招いての演奏会でした。 海外に旅をすると、毎回、日本での日常感覚との差を感じ続けています。その1つは生活の中でのリズム感の違いです。 日本語はリズムやイントネーションが英語やフランス語と違うため、言葉の理解度とは別の難しさが生じます。機内やレストランでのサーヴィス・ タクシーの運転・石畳に響くハイヒールの足音などに、日本と違った、ある種の心地よいリズムを感じます。そんな環境の中で上手くやって行くには、 いつもテンションを高めて置くことが必要です。
音楽の世界でも同じで、日本人が西洋音楽を演奏する時の問題点の1つにリズム感の不足があるとよく言われます。 このこと自体が良いとか悪いとかの問題ではなく、事実であることは否定できません。若い世代の人達は、昔と違って、素晴らしい感性を 持っておられます。それなのに(資金も充分でないのに)何故、遠いロシアから指揮者をお招きしたのでしょうか。 それは[ショスタコヴィッチ=交響曲・第5番]の出だしの音に、大学オーケストラの水準を超えた音楽性を感じ、民族の血・文化の差の存在の 重みを痛感したことに現れていたことに現れていました。それと同時に、楽団員全員が異国の指揮者との間にテンションの高まりがあったから こそ実現出来た演奏でした。指揮者のご出身地のマリ=エル共和国は、モスクワの東700キロのカザン付近です。
= 松井 真之介(平成10年・H10,Vla,指揮)
やっぱり鼻息の荒い世代だった。それまでの3年間、上級生達の激しいこだわり・真剣なぶつかり合いに畏怖し、自分たちの脆弱さに 絶えず恐怖していた我々も、「ヤッパリ」である。或いは、過去の3年間でそのようになったのかもしれない。どの大学も大曲志向、ユース・オーケス トラや一発オケの乱立に象徴される、「アマオケ・バブル」とも言うべき当時の状況が後押しして、夏・冬ともに無謀な曲に挑戦。井崎正浩氏、金聖響氏と いう、今では高嶺の花となってしまった2人の豪華な指揮者に客演していただき、クソ暑い夏の最中《97年・サマーコンサート》に、果てしなく クソ暑い[ラフマニノフ=交響曲・第2番]。この曲の前には、[ブルックナー=序曲、シベリウス=交響曲・第5番]が演奏され、これは神大オケ史上 最長のプログラムのはずである。確かに終演は9時15分を超えていた。しかし井崎氏のラフマニノフは超速で、我々は最初そのテンポに全くついて いけなかったが、何度か練習を重ねるうちに、いつの間にかそのテンポに飲み込まれて行った。それでも60分超である。ラフマニノフが速くても、 やっぱり過去・最長プログラムかもしれない。
[第九]のシーズンすら終わろうとする元旦の5日前、甘いクリスマスもかなぐり捨てて辛口の【第47回定期演奏会】は [マーラー=交響曲・第5番]。「懲りもせず」にである。4回生の学生指揮者の私にとって、マーラーの最後の2週間、これが正直つらかった。 卒論執筆真っ只中、1日3時間睡眠で、夕方はオケに「出勤」して、[ブラームス=悲劇的序曲]を振り、[マーラー]を弾くという「労働」を続ける 毎日。腕も神経もちぎれそうだった。当時27歳の客演指揮者・金 聖響氏も、[マーラー]は初めての大曲とあってかなりののめり込みよう。 彼も私もだんだん神経質になり、余裕と判断力がなくなってくるのがわかる。彼は妥協しなかった。我々も大いに牙を剥いて噛み付く。 もう、格闘である。そしてだんだんみんなやつれてくる。大学の冬休みで、学生会館から締め出された最後の数日は、何とか確保した練習場を流浪。 もう限界、という時にやっと本番を迎える。
[悲劇的序曲]。身の回りの手入れに構っていられなかった私に、悲劇が起こった。あと数小節で終止線。コーダもコーダという時に、 汗と一緒にメガネが飛んだ。そう、数日前から緩んでいたメガネの手入れを怠ったせいである。幸いにして足元に無傷で落ちていたので救われたが、 あの時は本当に一瞬、凍った。あとの70分をどうやって乗り切ろうか、と。
[マーラー=交響曲・第5番]。思ったように手が動かない。やはり振った直後に楽器を弾くのはつらい。プルプル震える手を、 それでも無理矢理動かす。もうみんな心も体も限界に来ているらしく、異常なテンションで弾き、吹き、叩きまくっていた。 まるで死に際のあがきのように。
1997年の年末はこうして去っていった。ねっとり黒くて重い泥の海に溺れて窒息しそうな冬だった。2度と楽器なんか触るもんか と思った。その誓いは幸いにして3ヶ月で破られることになったが、今までこんなに音楽を恨んだことはなかった。しかし、苦しいつらいと思いな がらも、この時に自分が発し、みんなから受け取った異常なエネルギーと不撓不屈の精神が、何年も経ったのちに生き続けていることを感じ始める ようになる。あの時の泥の冷たさ、それは、いつの間にか、赤く確り(しっかり)燃え続ける黒炭のぬくもりに変わっていたようだ。
一緒に[マーラー]の泥の中でもがいた金 聖響氏は、この黒炭のぬくもりに早くに気付かされることとなる。彼は、次の年に デンマークで開かれたニコライ・マルコ国際指揮者コンクールで見事優勝することになるのだが、審査のために、この時のヴィデオを送ったという。 泥まみれの[マーラー]のヴィデオを。その後の彼の活躍はもう言う必要がない。私は彼と今でも個人的に連絡をとり続けているのだが、 最近聞いた話では、彼もこの時が一番苦しい時期だったらしい。彼はこの時の冷たい泥をいちはやく黒炭に変えてしまったようだ。そして、 この時の同輩も、今では恐らく、この変化に気付いているだろう。そろそろみんなで確認してもいい時期かもしれない。
= 松藤 健(平成11年・B,Trb,団長)
私が団長を務めさせて頂きました1998年の神大オケの活動は、3月「リゾートホテル清富」の春合宿から始まり、 ついで、5月の新歓合宿は「美方パレス」で行いました。《98年・サマーコンサート》は、客演指揮を井崎正浩氏にお願いして、 アルカイックホールで、[ウェーバー=「オベロン」序曲、バルトーク=「舞踏組曲」、シューベルト=交響曲・第9番「ザ・グレート」]でした。 平日の夜なのに千人近い方にお出で頂き、素晴しい演奏会となりました。
〔先輩・寸評〕大部分のメンバーにとって、恐らく最初で最後のバルトーク。難しいテンポやハーモニーの変化も無難にこなして、
見事な出来。シューベルトの2楽章の低音部が、曲全体を分厚く支えて好演。ウエーバーも私の現役時代の見果てぬ夢。45年前には、
あのヴァイオリン・パッセージを完璧に弾ける者はいなかった。脱帽!。
(千葉修二)
8月の夏合宿は、「リゾートホテル清富」。11月の秋合宿は「美方パレス」で行い、【第48回定期演奏会】は客演指揮に ヴィヤチェスラフ・プラソロフ氏を招いて、[ヨハン・シュトラウス喜歌劇「こうもり」序曲、プロコフィエフ交響曲・第7番、 チャイコフスキー=交響曲・第6番「悲愴」]を演奏しました。
指揮者のヴィヤチェスラフ・プラソロフ氏は《96年・サマーコンサート》で神大オケでデビューを果たし、2度目の客演指揮者と して迎えられました。このプラソロフ氏、情勢不安なロシアから遠路はるばるの客演ということもあり、大幅に来日が遅れ、非常に短い練習期間で演奏会 当日を迎えたことを覚えています。当時の手帳によると、定期演奏会のわずか2週間前に「プラソロフ来れるか!?会議」とメモ書きがあります。 演奏会当日のゲネプロ時ですら、各奏者に細かい奏法の指示が出ていたくらいですから、大変緊張感のある演奏会でした。また、もう1つ思い出深いのは、 「アンコールのくどさ」でしょう。悲愴の第3楽章を、ひたすら演奏しまくったわけですが、お客さんの耳疲れ以上に、最後は演奏側も疲労困憊という 感じでした。(ご本人は「悲愴」に執着されていたようだが、演奏はプロコフィエフの方が面白かった=千葉)。ただ、我々4回生にとっては文句なしに 完全燃焼した最後の演奏会だったといえます。
ここで団長・副団長という役職について述べて置きます。諸先輩方は「副団長?。なにそれ?」と思われる方がいらっしゃるかも しれません。それもそのはず、実はこのポストは私が3回生の時に創設されたものです。その名誉ある初代副団長に選ばれたのが初代チューバ奏者でも あるK山氏、続いて2代目に選ばれたのが先述のH川氏です。以降、副団長はこの流れを汲んでいるようです。団長・副団長の役割分担については 下記の通りです。[条件・資質]団長:前年にチーフマネージャーを務めていること。普通にしっかりと発言出来、ここぞの時に叱咤出来ること。 副団長:前年までに、癒し系キャラクターをアピール出来ていること。普通に発言しても面白く、ここぞの時も普通に面白いこと。 などが必須条件です。
= 石井 真郷(平成11年・C,Vn)
《1999年サマーコンサート》【第49回定期演奏会】のコンサート・マスター》
神戸大学に入学後、私は10数年続けていたヴァイオリンの経験を生かそうと、オーケストラへの入団を考えていました。 学生会館の廊下でヴァイオリンを練習していた美しい女性の先輩に緊張して声をかけたことが、オケとのはじめての接触になりました。入団の手続きは、 4月に開かれた「新歓コンサート」で行なわれました。それが、普通のサークルならば愛想よくとてもフレンドリーに話しかけてくるところを、 入団担当の先輩方からは、「オーディションするかもしれないし、入れると決まったわけじゃないからね」といともつっけんどんに応対されたのに ビックリしたことを覚えています。これが、神戸大学交響楽団に対する大きな初印象になりました。結局オーディションは行なわれず、 ヴァイオリンパートへの入団が正式に決まりました。しかし、練習は週3日欠かさず来ること、演奏会への参加は人数次第で出られるかどうかは 分からないなど、クラブの方針は、はじめ私にはとても厳しいように思われました。
入団に関しての1番のポイントは、希望者数と必要人員との調整ということだったように思います。私が在籍していた当時、 ヴァイオリンパートは人数に恵まれていました。メンバーは「経験者」と「初心者」から構成されていて、オーケストラ側としては、演奏会に 出られる人数や団の方針についていけるかどうかが、入団手続きの際に考慮されねばならなかったのです。その点で、私の「厳しい」という 印象を抱いた手続きのやり方は、オケ側にとっては妥当なものであり、それはやがて自分でも経験することとなりました。ただそれはその年次の 状況によるようで、私の卒団後はヴァイオリンの人数が減少し、入る気のあるものはすぐに歓迎されたということです。
さて、やがて練習に加わることになります。練習は火、木、土曜日に3時間ずつ、「セクション練習」と「トゥッティ」の合奏 が行われ、それに付随する「個人練習」が行われます。美しい先輩が学生会館で私の目を奪ったように、合奏練習の前の時間や練習日以外の曜日には、 「個人練習」を各自ですることが、団内では暗黙のうちに決められていました。私も例に漏れず、月曜日から土曜日まで毎日のように学生会館に入り浸り、 与えられた曲や他の楽曲を練習していました。そして当時は、それがほとんどの団員にとって当たり前のことでした。が、現在では少し 事情が違うようです。ときたま練習日以外に学生会館を覗いてみますと、特に夜間には、個人練習をしている団員にはあまりお目にかかれなく なりました。これは、私の在団中から徐々に起こっていた、オーケストラに対する団員の取り組み方の変化の1つの表れのように思います。
私の先輩方は、大学生活でオーケストラ活動に最も重点を置く人がほとんどでした。練習日以外にも個人練習をして次の合奏への 準備を欠かさない、くだけて言えば、アルバイトなどの事情で個人練習ができない、などということはありえない、という考え方が主流でした。 その一方で、そのような考え方に同意できず、必要最小限の努力でオーケストラを楽しむ、という考え方を持つ人もいました。私が1・2年生の頃は もちろん前者が優位で、毎日、学生会館の廊下には、閉館の午後10時まで(あるいはそれを越えて)、練習する団員が絶えませんでした。また、 合奏においても、練習を欠席することは極力避けなければならない雰囲気が圧倒的でした。しかし、学年が上がるにつれて状況は変わり、 個人練習にそれほど時間を費やさない人も増えてきました。それは特に弦楽器に特徴的な動きでした。このような変化は団員同士の取り留めのない話や 演奏会後の反省会でもたびたび話題に上りましたが、組織としての問題には発展せず、結局、団員個人に任されることとされていったように思います。 事実、上のような意味での「拘束力」は、学年が変わるにつれ、総体的に力を減じていきました。このような変化は私に、特に個人練習への取り組み方を 通じて、組織の方向性の難しさを考えさせることになりました。
最後に、オーケストラでの活動が私に残してくれた最も大事なもの。それは、卒団してはや4年、それでも、神戸大学交響楽団 でさまざまな人たちと培った友情は、依然として私の交友の大きな1部分を占め続けています。入団手続きの際、無愛想な応対で私を戸惑わせた先輩は、 団内での活動を通じて打ち解け、今では代え難い友人の一人となりました。オーケストラの方向性について意見を戦わせた同輩や、個人的な感情の もつれ合いがあった後輩とも、時々会っては当時のことを笑いながら一緒に回想することができます。オーケストラは、いろんな人たちの中で私と いう人間を育ててくれたかけがえのない場所でした。時にはそれが故に生じるさまざまな問題もありましたが、そのような難事を帳消しにさえできる 交友の場として、オーケストラは私にあり続けてくれました。練習後の食事やコンパ・合宿・演奏会を通じ、それは育まれてゆきました。 団外の友人の「合コンの場が欲しい」というような話を聞くと、私はいつも「オーケストラにいてよかった」と思ったものでした。 そこには、何気ない会話のできる場や真面目な議論もできる場、さらには酒に呑まれて暴れられる場や「合コン」の場まで、 ありとあらゆる交友の場が、求めればあったからです。
ところで、今から考えて面白いなと思えるのは、「学年」という概念です。同学年という枠はいつも意味を持っていました。 演奏会に関する議論(選曲やパートリーダーの集まりなど)及び運営上の話し合い(渉外や会計といった仕事)は、いつも「学年」ごとに設けられました。 演奏の気風における「その学年のカラー」といったようなことが、演奏会ごとに、団内でも、OBの方からもいつも言及されていました。このように、 活動上自然にできた「学年」という輪が団内での交友にも大きな影響を与えました。それは、大学の「同学年」とも、おそらくは会社の「同期」 とも異なる、新鮮な概念だったと今では思います。入団時に感じた「厳しさ」も、この交友の豊かさに実は通じていたのかもしれません。 週3回は必ず一同に会し、演奏会へ向けて励みあうという基本方針がなければ、おそらくオーケストラでの交友の場は、もっと薄いものとなって いたでしょう。その方針をどこまで徹底するかは状況によりますが、その点だけは、本当に、頑としてあってよかったと思えます。 何気ない会話をし、励ましあい、時にはぶつかり合える仲間さえいれば。
= 内海 友香(平成13年・A4,コンサートミストレス)
記念すべき【第50回定期演奏会】は、トーマス・ザンデルリング氏の指揮の下その幕を上げた。初めて先生が来られた日のことは 忘れられない。いつ、どこでかは定かに覚えていないのに、当日の緊張感が壮絶であったことだけは、いつまでも忘れられない。先生の英語は、 そのまま直訳したら、余りにきつすぎると思われる表現で、徹底的に指摘を始められた。先生の英語を意訳するのに、どれほど気苦労を重ねたこと だろうか。それほど強烈であった。そして、指揮中に先生が何度も見せた、あの突き刺さるような鋭い視線。何度相手を刺しても、納得いくまで先生は 決して妥協しなかった。あの緊張感は、忘れられない。
私が萎縮してはいけない。みんなを萎縮させてしまってはいけない。そうなると「音楽」でなくなってしまう。 それだけで必死だった。如何に音を楽しむか。これが私の最大の目的だった。なにはともあれ、ここで神大オケの伝統が功を奏した。 合宿での凄まじい練習スケジュール、定期的なトップ合わせ、多様な形態のパート練習、ランダムな縦割り練習、これらを経て、 一人一人に自信が生まれてきた。これがお互いに影響しあって、自信に相乗効果を生んだ。オケの仲間一人一人が、『音を楽しみ始めた!』と 密かに私は喜んだ。
相変わらず厳しい調子の先生であったが、皆の自信とともに比例して、先生の顔に満足げな表情を見られる回数が確実に増えた。 たまに、すごく嬉しそうな視線で訴えてきた。「僕は非常に楽しいんだよ!」と叫んでいるかのようであった。そして、気づいた。先生の厳しさが どこからくるのか。それは、音楽を誰よりも純粋に愛しているからであり、プロ・アマチュアに関係なく、妥協を許さない厳しさであった。 究極なわがままと思えるほどの態度は、そこからきているのだ。先生の名声で圧倒されていた私の雑念が、先生への理解を阻んでいたのだろう。
そして、神大オケの伝統として有名な、「最後の追い込み」に入った。朝から晩まで、学館の各階から響く音がいつもより多く、 一際(ひときわ)大きい気がした。そして、ふと思った。今まで当たり前に過ごしていたオケ生活はこれで終わるのか!。家から学館へ直行して、 楽器の練習。そこで会った仲間とのアンサンブル。その勢いで適当にメンバーをかき集めて、一発縦割り練習。気まぐれに授業に参加し、 直ぐに学館へ帰館。オケの練習が始まって、夜までさらに練習。学館のおっちゃん(星さん)の聞き取りにくいが温かい閉館放送で、練習終了。 その足で、金太郎(居酒屋)に行き、スコアや楽譜を広げてあれやこれやと夜中まで。そのまま誰かの家でCDをかけて、音楽批評再開(たまに恋愛ネタ)。 疲れきって寝てしまい、起きたら再び学館へ。我に返って、熱くなった胸を抑えて再び6階ホールに向かった。チェロの可愛いい後輩達が 「先輩!。この部分をどのように弾いたらいいですか?」と泣きそうな表情で必死に質問してくる。廊下の奥の目立たない隅っこで、 黙々とスケールを奏でる同期生がいる。50回まで、定期演奏会を続けてこれた秘訣がわかった気がした。神大オケの先代の方々から幾度も の演奏会を経て、神大オケの伝統と宝が今まさに私たちの中で生かされているのだと思った。音を楽しむ方法を、それぞれが無意識に、 しかし確実に受け継いでいるのだ。
そして、いよいよ新装なった神戸国際会館・こくさいホールでの本番。[チャイコフスキー=交響曲・第4番]。 ホルンの勇気ある第1声は、すべての煩悩を吹き飛ばしてくれた。吸い込まれるように、チェロと共に、イントロに入った。後は、野となれ山となれ。 楽しくて楽しくてしようがない演奏会だった。観客の拍手が、とても心地よく、胸に響いた。オケの仲間ひとりひとりがファミリーの1員として、 叱咤激励しあい、けんかし合い、この音楽ができた。全員が独自の感性を持ち合わせて、重ねた音が一つの曲を創り上げた。『奇跡だ!』と感じた。
そして、この経験が次の代、さらに後の代に受け継がれていって欲しい、と強く願う。
《トーマス・ザンデルリンク氏= 神戸大学交響楽団が客演指揮者として初めて迎えたドイツ人の大物指揮者。 ウィーン国立歌劇場・バイエルン州立歌劇場・フランクフルト歌劇場などで活躍。ベルリン国立歌劇場常任指揮者。 日本では大阪シンフォニカ音楽監督・主席指揮者》
= 井上 春緒(平成14年・D4,Cla,指揮)
私達1998年入学者は本当に仲が良く、現役であった頃は勿論、今でもたまに皆で集まって飲みに行ったり、希望者を募って 旅行に行ったりと、楽しい付き合いが続いています。とにかくまとまりがあり、何か大きな問題が起こっても、力を合わせて前向きに頑張れるような、 暖かい学年でした。
[ドボルザーク=交響曲・第7番、ボロディン=交響曲・第2番、ロッシーニ=「アルジェのイタリア女」序曲]を演奏した 《2001年・サマーコンサート》。[シベリウス=交響曲・第1番、シューベルト=交響曲・第3番、ヴェルディ=「ナブッコ」序曲]を演奏した 【第51回定期演奏会】。夏・冬を通して、私達が4回生の時の演奏会は、曲自体はマイナーなものが多かったが、なぜかとても民族性の高い演奏会 になりました。それぞれの素晴らしい作品達に向かい合う中、どうしたらもっと彼らに近づけるのか、その作品の音色が出せるのか、必死で考え続けた 1年間でした。また、当時の私はイタリア音楽特有の、どこまでも明るくて軽く開放的な感じを表現するのが苦手で、そんな私が指揮者の時に限って、 夏・冬の序曲にイタリア音楽が来たものですから、正直、最初は少し途方に暮れたものでした。おかげで客演指揮者の先生にも随分ご指導を頂きました。 その練習の中でとても印象に残っているのは、トップ陣の皆さんが、よりイタリアを感じるために、本番直前の練習後に、学生会館までピザの出前を頼み、 皆でそれを食べて気合いを入れたことです。私達は「皆で何かして気合いを入れる」ということが好きで、本番直前に舞台裏で当時の4回生とトップが 集まって「頑張るぞ!!」とヤクルトで乾杯したこともありました。
また、私達は本当に良い客演指揮者の先生に恵まれました。音楽的に素晴らしい指揮・指導をしてくださったのは勿論、 小田野先生も蔵野先生も、悩んだ時には相談にのって下さり、私達を前向きにさせて頂ける様々なアドバイスを下さいました。また、飲み会の席でも どんどん飲んで、よく先生と一緒に遅くまで盛り上がったものでした。私達の学年には自らトップに立って皆をぐいぐい引っ張って行くタイプの人が あまりおらず、それ故に演奏も消極的な印象の薄いものになってしまうのではないかと悩んでいた時、偶然、蔵野先生に練習に来て頂いた後、 先生と団員5人で六甲にあった焼肉屋に食事に行きました。その席で悩みを打ち明けて、先生に言われた言葉があります。「実の話、家に帰って 練習中の録音を聴いていると、これなら本当に素晴らしい演奏会になるかもしれない、と思うことがあるんだ。君たちの中には、確かにリーダーシップを とって、皆を引っ張って行くタイプの人間はいないかもしれない。でも、だからこそ、君達にしか出せないまとまりがある。皆で作り上げた全体として のいいサウンドが、ある。」と。この言葉を聞いた瞬間、とても気が楽になったことを今でもはっきりと覚えています。その帰り道、代金を払おうと する私達に仰った「いいんだよ。その分、本番でいい演奏を。それで返してもらうから。」という言葉。「絶対、この先生について行こう。 絶対にいい演奏をしよう。」と、5人で決意を固めたものでした。
問題が起こったことも一度ならず、私自身が問題を引き起こして皆に迷惑をかけたこともありました。 私はクラリネットを吹きながらの指揮だったので、当然演奏者としてはメインの曲では演奏出来ない、ということが指揮者になった時から 決まっていたのですが、4回生になって、やはりどうしてもメインを経験してみたい、同級生の皆と一緒にメインを演奏したい、 という気持ちが高まり、「冬の演奏会でメインのクラリネットを吹かせてほしい」と頼み込んだのです。本当に自分勝手なお願いだったのですが、 皆で何度も話し合いをし、結局その我侭をきいてもらえることになりました。
オーケストラに入部してからの4年間、特に指揮者の仕事をしていた2年間には本当に色々なことがあり、指揮者としての責任感に 負けそうになったことも何度もありましたが、それでも最後まで頑張ることができたのは、いつも周りで支えてくれた同級生の皆さんや先輩方、 そして後輩達のお蔭げでした。3回生だったにも関わらずメインの指揮をやり遂げてくれた指揮者の後輩。指揮との両立でなかなか木管セクションの 時間をとれない私に合わせて予定を立ててくれた木管の同輩。そして一緒にトップを演奏してくれた皆。 ずっと傍で支え続けてくれたパートの皆には、 本当に感謝の言葉もありません。また、様々な疲れが重なって食欲がなくなってしまった時、練習の合間にそっとおにぎりを調達してくれたパートの 後輩や、演奏会前になるとストレスがたまっていないかと心配して、必ず励ましの電話をかけてきて下さった先輩。
最後のステージで、きれいな花束と拍手をくれた皆。最後の演奏会が終わった後、「春さん!河上コンマス!今までお疲れ様!!」と ホールの裏口で叫んで、1人1輪ずつの花をくれた同級生の皆。そして1人1輪ずつ貰った結果、抱えきれないような量になり、帰宅して1つずつ花の セロハンをといて花瓶に生ける作業に30分以上かかってしまったこと。本当に全部が最高の思い出です。神戸大学交響楽団に入部して、 たくさんの人に出会えて、私は本当に幸せでした。心からの感謝の気持ちを伝えたいと思います。《Cla.留学中のフランスから》
= 小森 杏奈(平成15年・神戸女学院大学,Vc,指揮)
「大学オーケストラでチェロを弾くために大学へ行く」。これは私が高校3年の時の言葉です。中学1年から高校2年の終わりまでの 5年間オーケストラのクラブに所属し、演奏会を重ねるたびにあの充実感が忘れられず、大学でも続けたいと思っていました。担任の先生やクラブの 顧問の先生、そして友達から進路のことを尋ねられればいつも、「チェロを弾くために私は大学へ行く、それもひとりで弾くのではなく、 大学オーケストラでチェロを弾きたい」と繰り返していました。まわりの友達が「経済の勉強をしたい」「公認会計士になりたい」「心理学をやりたい」 などとしっかりした大学進学の目標を掲げているそばで、私は「チェロを弾きに行く」と言い切っていたことがとても懐かしく、そしてちょっぴり恥ず かしく思い出されます。けれども、この神戸大学交響楽団での4年間のオケ生活を終えた今、なんともいえないすがすがしい気持ち、 爽快感でいっぱいです。私の念願を本当にやり抜いてしまったのですから。
私は学外生でしたので、授業のために神戸女学院大学へ行き、授業が終わればすぐに神戸大学の学生会館にかけつけるという日々を 送っていました。どちらが自分の学校なのか自分でもわからなくなるほど、学生会館に通っていたように思います。学生指揮者となってからは学生会館 でオケのメンバーと過ごす時間が増え、下振りとチェロの練習に大忙しでした。
私が練習の指揮をさせていただいた曲は、3回生で[ボロディン=交響曲・第2番、シベリウス=交響曲・第1番、アンコール曲と してシベリウス=悲しきワルツ]。4回生で[ブラームス=交響曲・第1番、アンコール曲としてブラームス=ハンガリー舞曲・第1番、 チャイコフスキー=交響曲・第6番『悲愴』]です。4回生の時には[フンパーディンク=歌劇「ヘンゼルとグレーテル」序曲、ワーグナー=歌劇 「ニュールンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲]を振らせていただきました。どの曲のスコアもぼろぼろで、演奏会が終わるたびに 先輩や後輩、同回生の仲間たちが書いてくれたメッセージでいっぱいです。いつもそれらのメッセージを読んでは、つい思い出して笑ったり、 こんな所もみてくれていたんだ、と胸が熱くなったり…。私たちにしかできないオーケストラを作ろうと一生懸命だった4年間の足跡を感じます。 今振り返ってみても、あまりに素敵すぎた4年間でした。楽しいことだけでなく、もちろん、つらいこともありました。自分の無力さを痛感し、 悔し涙を流すこともありました。けれども、そのような経験を自分のプラスに取り込める芯の強さを育ててくれたのも、やっぱりこの オーケストラだったのです。
学生指揮者として、そしてオーケストラの1員としてチェロを弾いたこの4年間の中で、私には2つの変化が起こりました。 私の音楽に対する想いや、オーケストラへの想いが少しずつ広がっていったように感じています。ひとつは3回生の時、もう1つは4回生の時です。
3回生の夏、その年の冬に行われる定期演奏会でのメイン曲、[シベリウス=交響曲・第1番]の下振りを任されました。 お客様に聴いていただく演奏会ですから、序曲・サブ曲・メイン曲はどの曲も大切なものです。けれども、学生指揮者として [ボロディン=交響曲・第2番]を振り始めたばかりの私にとって、メイン曲を指揮するということはあまりに大きすぎる壁でした。 自分の技術力のなさ、音楽知識の不足、そして何より100名を越すオーケストラの団員を惹きつけるだけの求心力がまだまだ自分にはないことに 悩みました。どれも1日や2日で克服できるものではないことを目の当たりにして、悔し涙を流したこともありました。それでも、 今の私ができる範囲で一生懸命オーケストラに語りかけて行けば4回生になって指揮台に立った時、今まで見えなかった新しい何かが 見えるはずだと信じて、毎回指揮台に立ちました。そしてそのとき、先輩方や後輩たちとの普段の何気ない会話、小森杏奈を学生指揮として立てて、 さりげなく支え続けてくれていた同回生の絆、指揮台を降りてチェロを弾こうとしたときには、いつでも笑いの渦で迎えてくれたチェロパートの 仲間の存在が、こんなにも温かいものだったのかということを改めて感じたことも忘れられません。学生指揮者という立場は学年で1人ですが、 やはりオーケストラの1員であることを実感したのです。
そうして4回生となり、また気持ちを新たに指揮台に立つことになりました。最後の1年間!という同回生の気持ちの強さを ひしひしと感じながら、毎回真剣に練習に取り組んでいました。7月に行われたサマーコンサートの練習に明け暮れていた5月頃でしょうか。 私たちの学年の団長がそっと話してくれたお話を紹介させていただきます。
「地道で、しんどい努力が必要なのは百も承知。だけど、それでも、音楽が好きで、オーケストラをやっているということは、 いつまでも心のどこかに留めておきたいなぁ…。」彼は、一生懸命になり過ぎるあまり、一番の原点である「音楽を楽しむ」ことを忘れてはいけないよ、 ということを教えてくれたのです。この話をきいた時、あともう少しで手が届くのになかなか見つけられなかった宝物をとうとう探しあてたような、 とてもとても幸せな気持ちでいっぱいでした。「今日は何の練習を中心にやろうかな」と日々の練習に気をとられていた私でしたが、これだけじゃなくて、 まだほかにもっともっと大切なことがあるはずと、その見えない何かをずっと探していたのです。彼の言葉を聞いて、私は思い出しました。 「大学オーケストラでチェロを弾くために大学へ行く」と言いきっていた高校生の自分の姿を、思い出しました。チェロをオーケストラの中で 弾くというあの楽しみをもう一度味わいたかったからこそ、私はここへやってきたのです。この楽団へやってきた時、誰しもが新しいオーケストラ に参加しようという好奇心と、これから始まる新たなオケ生活に心を弾ませていたことでしょう。この楽団に惹きつけられたみんなの心の奥底にある、 「音楽は楽しいという気持ちをいつまでも持っていようよ」という想いこそが、私が指揮台から伝えたいと思い続けていたものだったのです。 沢山の仲間に囲まれ、じっくり本音で向き合いながら音楽を作り上げてきた時間は、何物にもかえられない宝物です。
この4年間、いろんなことを感じ、頭をフル回転させて考え、壁にぶつかっては這い上がってきました。お腹をかかえて笑いあった ことも、悔しさのあまり涙したこともすべて、私を育ててくれた大切な宝物です。地道な練習を重ねながらも、「でもやっぱり音楽は楽しいからや められないね」と仲間と笑い合いながら、これから先も音楽を続けていけたら良いなと私は思います。私は、抱えきれないほどの思い出をこの オーケストラからいただきました。こんなにも素晴らしい時間を過ごすことができたのは、沢山の先輩方や後輩たちとの出会い、 同回生の仲間たちの支え、そして、このような時間を私に与えてくれた家族のお陰であると、心から感謝しています。 多くの人の支えがあってこその、宝物です。
この神戸大学交響楽団というオーケストラが、音楽を心から楽しみながら、卒団してからもずっと続くであろう仲間たちとの 友情を育む場であり続けて欲しいと、心から願っております。