= 山道 博(昭和52年・E-25,Vc)
創立60周年にあたる昭和50年(1975)の【第25回定期演奏会】にふさわしい曲として【第22回定期演奏会】で 演奏されたと同じ[ベートーヴェン=交響曲・第9番]を選ぶことにし、1年がかりの準備を開始。先ず、指揮は岡田 司氏(昭和51年・Vla,指揮)に お願いしました。
大変だったのは前回と同じくコーラス集めでした。神戸大グリークラブ・神戸大混声合唱団アポロン・神戸女子薬大・ 神戸海星女子大・松蔭女子大・神戸山手女子大・甲南女子大など、市内の女子大に足を運び出演を依頼しました。練習の直前になって辞退する 大学もあり、ピンチの連続でした。
また、演奏会の収支を黒字とするために営業努力も必死で行いました。新聞などの無料案内欄の活用・市内の音楽担当の先生の招待、 コーラス・メンバーにはチケット代の半額をお礼とする事など、極め付きは、収容人員2,500人の神戸文化ホールに対して、3,500枚のチケット を発行したことでした。前評判は上々で、当日券は売り切れの上、立ち見客が出る騒ぎに、会場側から注意を受ける程の盛況となり、当然収支は 大黒字でした。コーラスに参加してもらった女子大生達も「こんな大きいホールで、満員のお客さんを前に演奏出来て感激した」と言われました。
また、25回記念と言うことでワグナー=「名歌手」をOBと共演しました。
= 内田 州治(昭和54年・E-27,Vc,指揮)
私が神大オーケストラに入ったのは昭和50年(1975)の4月でした。土曜日の午後、学生会館の5階音楽室に足を踏み入れると、 総勢40人位のオケの人達が皆真剣なまなざしで[ベートーベン交響曲・第8番]の総合練習の開始を待っていました。指揮者は当時4年生の岡田先輩で、 その日は「込んだ電車の中で気分を悪くしたため、練習に遅刻して申し訳ない」と言ってから立ち上がり、タクトを上げるとオーケストラのメンバー 全員の神経が一点に集中するのが感じられました。第1楽章の明るいテーマがヴァイオリンで朗々と自分の目の前で奏でられるのを聞いた時、 私は神大のオーケストラってすばらしいなと実感し、すぐに入団する決心を固めました。休憩時間中に当時渉内マネージャーであったチェロの 山道先輩から「で、何の楽器したいねん?」と聞かれ、「高校時代ブラスバンドでアルトサックスをやっていましたのでフルートかオーボエを やりたいのですが。」と言うと「俺も昔、そやったけど管楽器はうまいやつようけおるしなあ、チェロかベースにせえや」と諭され、持ち運びの 簡単なチェロに決めました。早速パートリーダーの三波先輩に紹介され、楽団所有の古い楽器を使って当分の間個人練習をするように言われ、 楽器の構え方、弓の持ち方、調弦のやり方など、まったくのゼロから手ほどきを受けました。当時チェロパートには上原さん、浜崎さん、 上野さんなど多くの優れた先輩がおられ、総合練習の休憩時間には細かい指導を受けました。練習後は阪急六甲の六甲苑、西灘近辺の高田屋、 三宮の餃子の赤萬、トーアロードの〔らんぶる〕など、よく連れて行ってもらいました。3ヶ月程たってバッハの無伴奏チェロ組曲第1番 プレリュードの最初の4小節が弾けるようになった時は、これからずっとこの楽器を続けていこうと思いました。
夏休みに入る少し前に山道さんが意味深長な笑顔で「まあ、座れや」と言って総合練習に参加してもよいとの許可を頂き、 恐る恐る一番後ろの席に座りました。その年の【第25回定期演奏会】のメインは[ベートーベン=交響曲・第9番「合唱付」]でした。 まだとても弾けるほど上達していませんので、周りの人がどのように弾いているのか見るのが精一杯でした。それでも指揮者である岡田先輩の ムチは容赦なく新入生にも飛んできました。第2楽章のスケルツォの出だしの箇所を弦楽器全員が最初はプルト毎に、次は1人ずつ弾くよう 言われた時には寿命の縮まる思いをしました。弦楽器のほかのパートにも私と同様に学生になって初めて楽器を手にした同級生が沢山いました。 しかし[第九]の本番に全員出られるかどうかは今後の上達しだいで、最終的にはパートリーダーが決めるらしいことがわかり、 非常に不安を抱きました。第4楽章のレチタティーヴォは、チェロとベースが一人ずつ組になって音色がひとつになるような練習を繰り 返しました。そうした甲斐があって定演の間際になり、ようやく出てもよいといわれたときの嬉しさは格別でした。
プロの方に客演指揮や独奏をお願いして演奏会に花を添えて頂いただでなく、合宿にも来て頂き、神大オケを鍛えていただきました。 楽しい思い出もあったのですが厳しいお言葉ほど印象に残っています。【第26回定期演奏会】本番前の秋・合宿で久志本さんから 「神大オケって最初聞いたときは上手だなと思ったけど、その後ちっともうまくならないじゃーないの!」。(久志本先生が神大オケの練習に度々来て 頂けた理由の一つはヴィオラのX嬢に一目惚れしていたからだそうです)。【第27回定期演奏会】の指揮者・手塚さんからは 「ここのオケの練習に来ると耳がキ〜ンとするんだよね」と言われました。チェロリストの藤原さんには2度も来て頂きました。 卓越した技量にもかかわらず、気さくなお人柄で休憩時間などに、お話をしていてもまったく気取らず、普段着感覚でわれわれと接して 頂きました。
学生指揮では、何と言っても岡田 司氏の存在が大きかったといえます。私もいつかあんな風に、オーケストラを一度でいいから 指揮してみたいという欲求を持っていました。2年の春頃から簡単な曲の指揮を内輪で始めましたが、管楽器のメンバーに適切な指示を 伝えられなくて歯がゆい思いをしました。1年上の武田之通氏からタクトの基本的な振り方を教わり、同時に、ハッタリと肝の座り方も習いました。 [ロッシーニ=「セヴィリアの理髪師」序曲]の練習では曲の末尾、ベースの難所をエキストラの方にまで1人弾きを要求したり、 53年夏の本番では開幕直前にトイレで裾を上げたままのズボン姿で舞台に出てしまい、1曲目が終わったあと先輩から静かに注意を受けた こともありました。本当に楽しい四年間でした。
[メンバーの生態]= 内田 州治。
▼サマーコンサート後の小学校回りで「ピーターと狼」のおじいさんのテーマを吹いたファゴットのW氏は、若さとは程遠い老人の境地を感じさせる
吹きっぷりだったので、その後「おじいさん」と呼ばれるようになりました。彼は裸電球の下宿で哲学書を読みふけるという勉強家でしたが、
その後○年間留年しました。
▼兵庫県交響楽祭の演奏会に故・朝比奈 隆氏の指揮で「新世界」のピッコロを担当したY氏は練習中に4楽章のソロを
全部落としてしまい、厳しく指摘を受けた時に「楽器を持ってくるのを忘れました」と大先生に向かって大胆にも口答えをしました。
▼マネージャーのK氏がF氏運転の車に乗って、指揮者の手塚先生を迎えに行く途中で衝突事故を起こし、F氏の車は廃車になってしまいました。
その後F氏は安下宿に移りカップラーメンをすする日々が続いたそうです。
▼コントラバスのK氏は方言がきつく、ごく少量残っているカキ氷を店員さんが片付けようとした所「まだ残っとるぎゃ~」と激しく抵抗しました。
▼ホルンのI氏は普段温厚な男でしたがオケ連の担当をした時に、小松一彦先生指揮する「幻想」の練習で神大オケの出席率が低いとの注意を受け、
初めて怖い顔で該当者に檄を飛ばしたそうです。
▼トロンボーンのY氏は合宿先で泥酔し、階段に立ちはだかり封鎖するという奇行を起こした反面、教養の授業に出たいために合宿を途中で
欠席しようとしました。マネージャーの懸命の説得にもかかわらず、これを振り切ってしまうほどの教養ある勉強家でもありました。
▼トロンボーンのN氏はパチンコの名人で合宿費、チケットのノルマだけではなく車の頭金までも稼いだと豪語していましたが、
その実態は判明しませんでした。
= 高本 勉(昭和57年・T, Fl, 指揮)
《78年・サマー・コンサート》は、6月に神戸文化大ホールで行いました。曲目は[ブラームス=大学祝典序曲、 ビゼー=「アルルの女」から4曲、ドヴォルザーク=交響曲・第8番]でした。ブラームスとドヴォルザークを指揮された内田氏は、 非常に精力的に練習に取り組まれ、ご自分のイメージを団員にきちんと説明されて曲作りをされていました。また、ドヴォルザークの第4楽章で 吹かれた吉岡美恵子さん(日本フルート協会理事・S54,P27,Fl)のフルートのソロは、誠に印象深いものでした。
【第28回定期演奏会】は、昭和53年(1978)12月に神戸文化大ホールで[ベルリオーズ=「ローマの謝肉祭」、 シューマン=チェロ協奏曲、ベートーヴェン=交響曲・第5番「運命」]を演奏しました。この演奏会でベートーヴェン=交響曲・第5番を取り上げたのは、 シンフォニーの基本を、もっとしっかりと勉強して実践しよう、と言う理由があったようです。今更、「運命」をやるなんて、との声もありましたが、 こういう回帰の方向も、オケの活動が本格化してきた当時としては、音楽そのものを再確認するという意味で、 むしろ前向きの姿勢であったと思っています。
79年・サマー・コンサート》は[ヴェルディ=「運命の力」序曲、モーツァルト=交響曲・第41番、 ボロディン=交響曲・第2番]と言う新しいチャレンジを試みました。ヴェルディの序曲は、それまで日本ではあまり演奏されていませんでした。 そこで大学オーケストラでヴェルディを、と言うことになり、次回の「定演」と続けて取り上げました。ボロディンも「ダッタン人の踊り」 以外ではあまり一般には知られていませんが、迫り来るようなダイナミックさと、随所に現れる郷愁を帯びた美しいメロディを、 久志本 涼氏の指揮でやりたいとの団員の強い要望で実現し、シンフォニー・オーケストラの醍醐味を味わう企画となりました。 他面、モーツァルトは弦楽器中心の古典への回帰であり、このような変化に富んだプログラムは、 その後の関西学生オーケストラ活動に大きな影響を与えました。
【第29回定期演奏会】は、入場料500円で、昭和54年(1979)12月に神戸文化大ホールで行い [ヴェルディ=「ナブッコ」序曲、サンサーンス=ヴァイオリン協奏曲、ブラームス=交響曲・第4番]でした。ブラームスの金管楽器に よるコラールを思わせる冒頭の部分は、神大オケの金管楽器の高い演奏レベルに支えられた素晴らしいものでした。
この2年間は、神大オケの新しい第一歩を踏み出した時代であり、当時の在籍者の多くが、後に関西の社会人オーケストラの 演奏・運営の中心的役割を果たすことになったのは、注目すべき事です。
= 清水 宏(昭和58年・B ,Fg)
昭和55年(1980)度の【第30回定期演奏会】は、記念碑的な曲をやろうという声が強く、かなり早い段階から選曲を開始し、 翌年のサマーコンサートの選曲よりも早く「第九」の演奏が決定した。当時は、学生オケでマーラー・ブルックナーを演奏するというのは、 まだ稀であり、神大オケの「定演」としては3回目の登場となるが、曲として大きな意味合いを持つものでもあるので、「第九」に決定した。 直ちに合唱団の手配に入り、神大混声合唱団アポロン・神大グリークラブ・神戸女子薬科大学コーラス部・親和女子大学コーラス部・ 神戸海星学院大学グリークラブの協力が得られることとなり、合唱指揮は前回と同じく桜井武雄氏にお願いすることとなった。 指揮は第29回から3回続けて岡田 司氏にお願いした。
その後、《80年・サマーコンサート 》の選曲に入ったが、「第九」を見据えた選曲ということで、アンサンブルに重きをおいた [モーツァルト=交響曲・第38番「プラハ」とドボルザーク=交響曲第9番「新世界より]の2つの交響曲になった。
昭和56年(1981)度の《81年・サマーコンサート》は、3年ぶりに学生指揮者だけで行なったが、これは現在プロ指揮者と して活躍中の船曳哲也氏(現・船曳圭一郎氏)の存在が大きかったからだと言える。ただ、オケのレベルを上げるためには、 やはりプロの指導も仰ぐべき、という観点から、弦楽器トレーナー(延原武春氏)・管楽器トレーナー(守山俊吾氏・有馬博隆氏)を 招聘して指導をお願いした。56年度の選曲を見ていただけば、当時の選曲委員会における弦楽器群と管楽器群の各々の思いを お分かりいただけると思う。この年の両演奏会のメインはいずれもチャイコフスキーとなったが、[第1番「冬の日の幻想」]は 演奏される機会が極めて少ない曲であり、この年のトピックと言えよう。また、この2年間の演奏会では、協奏曲が 一度も取り上げられなかった、というのも特徴である。
年間スケジュールとしては、前年同様、春の新歓合宿、サマーコンサート、演奏旅行(但馬地方等への音楽教室)、 夏合宿、秋合宿、定期演奏会。その合間をぬって、有志による、管楽器旅行、ビオラ旅行(弦楽器旅行?)等々、懇親を深めるイベントも数多く 行なわれた。さらに、火・木・土の練習後の反省会(飲み会)、それ以外の日にも国維寮・下宿等で毎夜開かれた勉強会(飲み会)は、 個人的に忘れられない思い出だ。
= 大西正人(昭和59年・S,Vn,コンマス)
昭和57年(1982)はサマーコンサート・定期演奏会以外に、教育学部音楽科の教官の定年退官記念事業に協力することになり、 3月26日神戸国際会館(大ホール)で声楽の石田純一教授の指揮による[ハイドン=オラトリオ「四季」・小林とし教授によるリスト=ピアノ協奏曲 第1番(指揮:斉田好男)]を演奏しました。リストのピアノ協奏曲は、ソリストを浜口奈々女史に代えて《82年サマーコンサート》 でも演奏しました。また、本番でトライアングル係の同期のO君が、出番が来たのに椅子から立ちそびれて、ソロのチリンチリンを叩かなかったのも、 内輪で盛りあがったエピソードでした(同じ光景は、大分以前ですがプロの演奏会でもありました=千葉)。音楽家であると同時に神学者である客演指揮の 黒岩氏は、荘厳さの中にも情熱を感じさせる力強いタクトでした。メインのドヴォルザーク第8番・第2楽章には有名なヴァイオリンソロがあり、 コンサートマスターの服部先輩は、冷静にそつなくこなされたのには感心しました。
*この年の《サマーコンサート》から、今までの慣習を改めたことが2つありました。第1に、サマーコンサートも 神戸文化・大ホール(従来は中ホール)で行うようになったこと。第2に、以前は服装が白シャツに黒ネクタイという 葬式っぽいスタイルでしたが、ネクタイの色をエンジ色に変わったのも、この年からでした。
冬の【第32回定期演奏会】は、学生指揮者が序曲だけを振るという当時の慣習を破り、サブメインを担当し、 [リャードフ=8つのロシア民謡]を演奏しました。今日のようにブルックナーやマーラーを学生オケで取り上げる風潮はほとんどなく、 当時はチャイコフスキーなどのロシアもので金管楽器奏者の多くは満足せざるを得ませんでした。しかし、後輩たちはこの二年後、 グラズノフやショスタコーヴィッチを演奏し大きな話題となりました。客演は初めて金 洪才氏を招聘しましたが、 軽やかで的確なタクトさばきに魅了された女性部員(男性も)は数多く、美人の奥様に嫉妬さえ抱く者もいました。
この年の《83年・サマーコンサート》で演奏した[エロルド=「ザンパ」序曲]は名前こそ知られていませんでしたが、 当時の朝のFM番組のオープニングで馴染み深い曲でした。チャイコフスキーは、ヴィニアフスキー国際コンクールで入賞した景山氏の堅実な テクニックと歌唱性豊かなヴァイオリンを、客演指揮の田中一嘉氏はエネルギッシュでかつ明快な解釈で盛り立てました。田中氏は、 この1年前の夏、故・一丸 寛氏が全国で企画・展開していたネッスルのゴールドブレンド・コンサートの下振りをしておられた時、 そこで出会った部員(同期Cbの山本氏、私など)が、彼の音楽性とパワーに感動して招聘した経緯があります。最近の演奏会で田中氏が 再び神大オケに招聘されているのをうれしく思っています。
【第33回定期演奏会】は、私にとって4回生最後の演奏会でしたが、人事問題で確執したこと、会場が神戸文化ホールではなく、 尼崎アルカイック・ホールだったため、打ち上げコンパは恒例の泊まり込みではなかったことなど、残念な思い出です。人事問題の確執は、 どの世代でも経験されたであろう、所謂「首切り」というむずかしい問題でした。〈先輩方が築いてきた伝統ある神大オケの高いレベルを 維持・発展させることが、コンマスになった私の使命と信じ、また、「学芸会」的なコンサートにはしたくない〉という思いも強く、 人事権を持つコンマスの権限により、卒業生である4年生にとって最後の舞台となる「定演」で、しかも同級生である木管トップの首を切って エキストラを呼ぶ、という荒療治を断行しようとしましたが、結局エキストラは第一アシスタントに回るという妥協点で当日を迎えました。 これは『よりレベルの高い演奏をという気持ちと、みんなで仲良くという気持ち』の葛藤でした。
しかしながら、個人的事情で第2の大学生生活を滋賀医科大学で送ることになり、この考え方は大きく変えざるを得ませんでした。 つまり、音楽が好きで集まってきた仲間を結果的に排除するやり方は、何万人もの学生がいる総合大学でのみ通用するものであり、 学生数600名という新設単科大学では部員を20人集めるのも一苦労で、レベルを云々して首を切っていては本番の舞台は数名になってしまうことを 実感したのです。卒業後も社会人オケや市民オケで御活躍の皆様も、同じような苦労をなさっていると思いますが、 今ではアマチュア精神に則り排他的行動は慎むべきだったと反省しています。
演奏のほうは、逢坂氏の重厚な[ワーグナー=「マイスタージンガー」]それとは対照的で軽快な金 洪才氏の [シベリウス=カレリア組曲、ブラームス=交響曲・第1番]。 カレリアの3曲目「行進曲風に」で、先輩諸氏(特にFgの清水先輩)が口ずさんで いた「えーもん安いのはイズミヤで・・・・」の替え歌が、懐かしく思い出されます。ブラームスの第2楽章のソロでは、数年後、 後輩の一人から「ソロを弾いている時、泣いてましたか?」と尋ねられましたが、実は緊張して汗びっしょりになり、 額から流れ落ちる汗が 涙のように見えたのでした。
神大オケの長い長い歴史の中では、我々ひとりひとりが過ごした4年間はほんの一部分にすぎませんが、 精一杯に、一生懸命に、取り組んで作った各々の素晴らしい大切な思い出が沢山あるでしょう。
= 野村 秀彦(昭和60年・L-33,Cl,指揮)
昭和58年(1983)、3回生で《83年・サマーコンサート》の「運命」の下振りが学生指揮者としての最初の曲でした。 客演指揮は田中一嘉先生。ブライトコプフ社版のスコアからリプリントした中型スコア(当時の僕には高額でしたが)を購入、 必死でスコア・リーディングをして練習に臨んだものです。今も書棚に並ぶスコアには、田中先生の練習での指示をメモした跡が多数あり、 これらは、卒業後に市民オケで再度「運命」を指揮したときに大いに役立ちました。サマコンは同年の7月9日でしたが、 この頃神大オケの貴重な収入源であった、神戸市の中学生を対象の「オーケストラ鑑賞会」に、その3日後に出演しました。 当時のプログラムには、2日間、60分のプログラムを3ステージ、全11校、5,940人の中学生を対象にしてのコンサートであった という記録があり、両日とも、全曲私の指揮で「運命」をメインに据えた演奏でした。神戸文化ホールで2日間連続して3回も「運命」を 演奏するなどという贅沢な(大胆な)ことをしたのですから、学生オケとは怖いものです。この、いわゆる「ジャリコン」(悪い言葉ですね)に ついての記録は、他の方は余り書いておられないと思いますので、ここで触れておきます。子供相手と油断してかかり、楽器を始めたばかりの 初心者の練習演奏会としての要素もあったためか、事情を見抜かれた当時の神戸市の文化課の担当の方から「演奏の水準が低い」と お叱りを受けて私の代の前年に一度仕事を外され、私の代のチーフマネージャーを務めた十河君が、市役所に頭を下げに行って貰ってきてくれた 仕事でした。管楽器の出番の都合で、4回生の逢坂さんがサブメインの下振り、私がメインの下振りであったからとはいえ、 3回生での神戸文化ホール交響曲指揮体験は思い出の一つです。
この年(1983)の12月の【第33回定期演奏会】では、当初サブメインに決まっていた「魔法使いの弟子」が、 思った以上の難曲で、後になって「カレリア組曲」に変わったこともここで書いておかないと忘れられてしまう話でしょう。 当時レンタル譜しかなく、大阪フィルが練習用に写しを取って門外不出にしておられた譜面を無理に貸していただいて練習を開始し、 私も夢中でスコア・リーディングを始めていたので残念に思ったことを覚えています。
さて、4回生で迎えた《84年・サマーコンサート》の[グラズノフ=交響曲]について。今でこそ、グラズノフの全作品のCD 全集も出ていますが、当時は舞踏組曲「四季」と、ヴァイオリン協奏曲ぐらいしか知られていない作曲家でした。「一期一会」となった出会いは 三宮センタープラザ2階の輸入レコードショップで安売りされていた旧ソ連メロディア盤、フェドセーエフ指揮の交響曲・第5番の盤でした。 83年秋のことでした。8曲ある交響曲の中の代表作であることも知らなかったのですが、一聴して曲に惚れ込んだ私は、1ヶ月かけて船便で カルマス社版の大判スコアとパート譜セット(かなりの高額でした)を取り寄せて皆に聴いてもらいました。音源はこのレコード(後になって国内版の 全集が発売されました。)と、エアチェックした他の演奏の2種類のみ。選曲会議の通過後も、ミニスコアが未出版だったため、この大型スコアを 縮小コピーしてメンバー用に大量に製本してくれたのはチェロの大前君、また、この曲のスコアの冒頭をプリントしたトレーナーを作ろうと提案したのは ヴァイオリンの林田君で、みな完成したトレーナーを着て合奏したことも思い出です。実際に練習を始めてみると、特に最終楽章の難しさは ヴァイオリン・パート泣かせでしたが、客演指揮の守山俊吾先生の熱心なご指導が功を奏し、本番はメンバーの思いのこもった演奏となりました。 守山先生が自ら楽譜を提供してくださった[チャイコフスキー=バレー「くるみ割り人形」よりグラン・パ・ド・ドゥ]も、緊張と感動が持続した 思い出のアンコール曲です。グラズノフについては、この年のチーフマネージャーの谷林君の尽力で『50年ぶりに幻の名曲の再演』として、 朝日新聞紙上で大きく取り上げていただき、グラズノフの弟子で、この曲を日本初演した亡命ロシア人のエマニュエル・メッテル氏が 朝比奈 隆先生の師であったことから、その記事の中で朝比奈先生が「メッテル先生の初演の時、練習に立ち会った思い出深い曲を、 先生ゆかりの神戸の学生達が、半世紀ぶりに演奏してくれるのは嬉しいかぎりです」とコメントして頂いたことも望外の喜びでした。 その後、グラズノフは音源が増え始めたこともあって、学生オケで取り上げられる回数も増え、神大オケに譜面の問い合わせや私たちの 演奏記録の入手希望の連絡など、この演奏会がきっかけになった動きがありました。
私自身はこの演奏会の[シュトラウス=「こうもり」序曲]が4回生・学生指揮者としての正式のデビューでしたが、 緊張したせいか指揮台に上がる途中で指揮棒を落とし、拾いに戻ったというおまけもありました。サブメインの [ベートーベン=交響曲・第8番]の1番クラリネットは難易度の高い曲でしたが、木管奏者には最高に楽しい音楽で、 仲間に恵まれたことも幸せでした。
この年の冬の【第34回定期演奏会】には岡田 司先生を招く事に決定。プログラムも[「ローマの謝肉祭」、 「ハイドンの主題による変奏曲」、「ショスタコーヴィチ=交響曲・第5番」]という、意欲的な選曲でした。学生指揮者としては 「ローマの謝肉祭」での依藤さんのコール・アングレの名ソロ(本番では、私がいつになくたっぷりしたテンポで振ったのに見事に 付けてくださいました)を思い出しますが、中でも「ハイドン変奏曲」は、ブラームスの曲の中でも難曲であり、オーケストラや ホールのお披露目やこけら落としに使われます。リズム・ハーモニーなど、全てが学生オケの手に余る内容に、電子メトロノームまで 活用した下振りは苦労に継ぐ苦労で、そんな私達に岡田先生も親身な指導をしてくださいました。冒頭の木管アンサンブルのテーマでは 管トレーナーの有馬先生のご指導を頂きました。メインのショスタコヴィッチも冒頭の低弦からすでに難しく、どの楽章も悪戦苦闘した 交響曲でした。その分、本番での感動もひとしおで、この時のアンコールにはなんと私たちの代が先輩諸氏からの危惧する声の中を、 その2年前に教養オケで取り組んでいた「マイスタージンガー前奏曲」を演奏、自ら感動のあまり思わず涙ぐんでしまったことを覚えています。
この年の定期の直前、大阪に(1982)開館した『ザ・シンフォニーホール』が神大オケにとり大きなトピックとなった年でもありました。 2周年記念演奏会に来日したカラヤンとベルリンフィルの同ホールでの演奏を朝日放送が収録放送するため、そのカメラ・テスト用に1日を費やして くれるアマチュアオケを探していました。それを何と神大オケが引き受けたのです。カメラ・テストの収録当日、ベルリンフィルのメンバーよりも先に 来日していたカラヤンは、スポーティーな姿でさっそうと私たちの前に登場しました。ステージ裏の別室から直接モニターを通じて見守る彼の様々な 指示を聞きつつ、私がカラヤンの代役、神大オケのメンバーがベルリンフィルの代役という夢のような体験が始まりました。ただし、欲しいのは カメラのアングルだけなので、音はベルリンフィルの演奏がテープで会場に流され、実はメンバーは演奏の真似をするだけという、皆には「我慢」の 時間でもあったのです。「ローマの松」では、ジャニコロの松の部分で私にじっと目を閉じて欲しいとの指示で、何度もやり直すうちに退屈した クラリネットの藤本君がこっそり音を出したところ、「カラヤンがうるさいとおっしゃっています」とのアナウンスに皆大爆笑。彼は「カラヤンを 怒らせた男」としてしばらく語り草になりました。この後、まだどこのアマチュア団体も演奏したことのないホールで、空き時間に ショスタコーヴィッチの練習をしたのですが、多くの専門家の方がいる中で緊張して、まったく練習にならず、1日を費やしたカラヤン体験は、 団に入ったバイト料で Esクラリネットを購入したのと、朝日放送製作、ブライアン・ラージ演出(カラヤンの全コンサート映像の演出家)、 指揮者・野村秀彦、映像・神戸大学交響楽団、音声・ベルリンフィルという実に不思議なビデオテープになって残りました。テープは、 カラヤンからのお礼の肉声のメッセージがホールに響いている所で終わっています。今も私の宝物です。(もしも「一緒にベルリンへ来い」 とカラヤンから声が掛かっていたら、私の人生は大きく変わっていたでしょう!)。
最後に、昭和58年(1983)から59年にかけて県下各地での合唱祭などの伴奏のことも書き添えます。 58年11月には氷上郡民会館での第11回合唱祭に招かれ、[カルメン組曲。ハイドン=オラトリオ「四季」から「春」、 「丹波の明日」]などを演奏。翌年には西紀町立体育館での西紀町立中学校生徒会とPTA主催の演奏会で[「巣立ちの歌」 「カレリア」]などを、そして59年の冬には八鹿町民会館文化ホールでの但馬合唱祭に招かれ、[「ハレルヤ」「ドレミの歌」 「全ての山に登れ」「里の秋」「旅愁」]などを演奏しています。いずれも私が指揮をし、地元の合唱団との競演でしたが、 それぞれピアノ譜を元に時間に追われつつオケ譜に直したことを昨日のことのように思い出します。県のオーケストラ協議会の斡旋や、 それぞれの地域の出身のメンバーの仲介によるこうした演奏会も、今に続く神大オケの歴史の重要な歩みであろうと思いますが、 定演のプログラムにはこうした記録は残らないので、ここに記しました。
卒業して20年、現在も教職現場で高校生の吹奏楽を指導する一方、加古川フィルという市民オケの活動も、 楽器を始めたころから数えると30年近くになります。昨年はチェロの長谷川陽子氏を招いての演奏会も開きました。 全ては神大オケ時代に培った学生指揮者の体験と音楽を絆に結ばれた数え切れないほどの友人、知人、仲間の支えによります。 本当にありがとうございました。
= 三田村 忠芳(昭和61年・E-33,Vn,指揮)
私たちの学年最後の定期演奏会が、神戸大学交響楽団創立70周年という記念すべき回に当たるということで、選曲については、 4回生になった時から定演とサマーコンサートとを同時に議論しました。選曲にあたっては、前年度の大曲主義(グラズノフ。ショスタコービッチ)への 反動から、弦楽器を中心にブラームスやベートーヴェンなどのオーソドックスな曲にしたいという気持ちが強かったように思います。そのような中で、 定演については、弦楽器からの希望が強かった[ブラームス=交響曲・第4番]、サマーコンサートについては金管楽器からの希望の強かった [チャイコフスキー=交響曲・第4番]に決まりました。
《85年・サマーコンサート》は、この曲以外に[エルガー=行進曲「威風堂々」・第4番、ベートーヴェン=交響曲・第1番] というプログラムで、客演指揮は堤 俊作先生にお願いし、7月6日に神戸文化ホールで開催しました。
「威風堂々」は、私にとって初めての指揮で、 しかも管楽器主体の曲ということから、練習でどこをどのように指示していけば良いかわからず、随分トンチンカンな事を言って迷惑をかけていた のではないかなと思います。今でも当時を思い出すと、顔から火の出るくらい恥ずかしい気持ちになります。
[チャイコフスキー=交響曲・第4番]については、特に1楽章が難かしく、練習に随分苦労しました。8分の9拍子と言う、 日本人が苦手とする3拍子系(1小節に3拍子が3つ!)で、しかもメロディが2拍目からスタートするという複雑さで、リズム感の悪い私は、 毎日歩きながら、あるいはご飯を食べながら、何時もリズムを取る練習をしたものでした。またこの頃から毎回の練習時に、 大きなマイクスタンドを2本立てて録音し、下宿でチェックするというのが日課になりました。
堤先生は、非常にカリスマ性の強い、グイグイと引っ張っていくタイプの指揮者で、顔もいかにも「浪花のこわいおっちゃん」と いった感じでした。私はあまり行きませんでしたが、練習後に中華料理屋に団員とよく飲みに行かれ、後輩の中には信奉者(酒につられての?)が何人か 生まれたようでした。練習は大変厳しく、テンポを大きく変化されるので、指揮についていけず、よく怒られたものです。特に第2楽章のメロディ部分 では何度弾いても「指揮棒より早い」と指摘され、指揮棒を良く見て合わせること、指揮棒が動き出すまで音を出さないことを徹底させられました。 (でも、このことが、逆に定期演奏会では裏目に出たのではと思います)。本番は、ある意味スリリングな迫力のある演奏で良かったと思います。 また第3楽章の弦楽器のピチカート部分は、テープを聞くと、縦の拍が良く揃っていて、弦楽器の基礎的なレベルの高さが現れていたと思います。
【第35回定期演奏会】は、[シューベルト=ロザムンデ序曲、ドリーブ=バレー音楽「シルヴィア」、 「ブラームス=交響曲・第4番]というプログラムで、客演指揮者は、女性陣の圧倒的な支持を得ていた金 洪才先生にお願いしました。
ロザムンデ序曲では、弦トレーナーをお願いしていた大阪フィルの稲庭先生が「シューベルトはわからない」と言われて、 結局練習を見て頂けず、そんなに難しいのかと悩みましたが、本番はまあまあ上手くいったのではないかなと思います。打ち上げの時にエキストラで 来て頂いたOBから「学生にしては、表情のある指揮だった」と言って頂き大変うれしかったことを覚えています。
「シルヴィア」は、金先生のスマートな指揮ぶりが発揮され、軽快なテンポで爽やかな演奏でした。が、ブラームスは、 とにかく「曲にする」のが難しい曲でした。3連音符と2連音符が複雑に絡みあっていて、まず縦拍を合わせるのが難しく、 しかも縦を合わせることばかり考えていると今度は曲が前に進んで行かないという感じでした。本番では大きな事故がありました。 第2楽章の弦楽合奏になるところで、一瞬止まりそうになったのです。金先生がオケに委ねるようにして指揮棒をあまり動かされなかったので、 前回のサマーコンサートで「指揮棒を良く見ろ」と叩き込まれていたことが災いしたのか、数人以外は演奏を止めてしまったのでした。 何とか続けて演奏できましたが、あの瞬間は空気が本当に凍り付いたようでした。打ち上げの席で金先生は「あまり演奏が上手いので 聞き惚れてしまった」とフォローされました。当時、先生が体調を少し崩されていたため、練習を見ていただく回数が少なく、 あまり細かいところまでご指導頂けず、もっと金先生との練習回数が取れていれば、棒にも慣れて、あのような事は起こらなかったのではと 思うと残念です。
アンコールは、演奏会がクリスマスイブに当たるので、前年に客演頂いた守山先生に特別に編曲をお願いしたオリジナルの 「クリスマスソング・メドレー」を演奏しました。おそらくポピュラー曲を定期演奏会で演奏したのは始めてだったのではないでしょうか。 チャイコフスキーの「花のワルツ」のイントロで始まり、クリスマスソングに変わっていく、とってもおしゃれな曲でした。私たち同期の 「お気楽な」性格に合った曲で定期演奏会を締めくくることが出来て本当に良かったと思っています。
サマーコンサートや定期演奏会以外にも、忘れられないのは、どこかの多目的ホールの柿落としでの演奏会です。 コントラバスのソロによるチゴイネルワイゼンとバレエ「白鳥の湖」の伴奏でした。ソロの伴奏は私にとって初めての経験で、 しかもテンポが大きく変わる難曲でしたから、初めて合奏した時にはさっぱり合わず、かなりあせって下宿で何十回と指揮の練習をしたお陰で、 本番では、何とか無事に演奏を終えることができ、ホッとして指揮台から降りて倉田氏(Cb)と話し込んでいた所、次の曲の 「白鳥の湖」の幕が上がってしまったのです。幕が上がると同時にオケが演奏を始め、バレエが踊られる段取りだったのをすっかり 忘れていた私は慌てて指揮台に駆け上り、殆どの団員が楽器を構えていないのを構わず、指揮棒を振り始めました。 あの時は団員もバレエ関係の方も随分ビックリされたと思います。
私は卒業後も、所属は何回か変わりましたが、ずっとどこかのオケに入ってヴァイオリンを弾いています。気が付くと、 既に20年以上の年月が経ち、「初心者だから」と言い訳けできない経験年数になってしまいました。でも、これからも出来る限り演奏を続けたい と思っています。このような私の音楽との長い関わりの原点となるのが、神大オケでの4年間で、この思い出は大切にしていきたいと思います。 また、「音楽の友」誌が、学生オケ紹介のシリーズ記事の取材に来たこともあり、雑誌には、学年で作った{グラズノフの楽譜が印刷されていた トレーナー}を着た私の背中の写真とともに、「しっかりした音が鳴っている」との記事が載りました。
= 射矢 浩一(昭和63年・P-34,Vc)
私は前年度(1986)に、2浪の末入学、そして初めてチェロに触れた、いわゆる初心者団員です。 そして、これは、そんな私のほろ苦い青春の一ページです。
2回生の春、私は真新しいマイ楽器を手に、イヤ、胸にしておりました。しかし、それまでの演奏会では1曲しか与えられず、 何となくマイペースで学生会館のベランダで夜景を見ながら練習する立場でした。が、《84年・サマーコンサート》では、打って変わって、 3曲の楽譜を渡され、音を出しているのかいないのか分らない状態で、途中で迷子になりながら、今、音が流れている場所を探さなくて はならない状態になっていました。
当時の学生指揮は野村秀彦さん。大変、音楽に詳しく、いわゆる「マニア」でした。そのマニアックな野村さんが外国から手 に入れられてこられた[グラズノフ=交響曲・第5番](学生初演)。この曲がメイン。後は[ベートーヴェン=交響曲・第8番、 Jシュトラウス=喜歌劇「こうもり」序曲]でした。
このグラズノフの5番のスコアは入手困難のため、神戸駅の南の「藤原商会」という印刷屋へ頼んで、人数分印刷製本したものが 配られました。この曲のレコードが無く(グラズノフで知られている曲は、バレー音楽「四季」、「ライモンダ」位のものです)、野村さんに頼むと 「ラジオから録音されたテープ」をダビングして快く配ってくださいました。このテープを何度も何度も聴いたものです。ちょうどその頃、 神大オケのオリジナル・トレーナーが出来上がり、その背中にも、そのスコアがプリントされていました。でも、そんな曲を弾く技術など 持っていない私は「早く、この難曲から解放してくれんかなあ・・・」と願うのでありました。
指揮者は守山俊吾さん。この方は5月の連休の合宿にまで一緒に来てくださった熱心な方でした。以下私の苦いエピソード。 この合宿でのチェロコンパで先輩と徹夜してしまった私は、翌日の弦セクで見事に退場処分をくらい、「あいつは何考えとんや!」と先輩達から 後ろ指を指されたものです。結局、私はグラズノフどころかベートーヴェンまでも切られてしまう羽目に・・・。サマコン前には学生初演ということで 新聞で紹介され、日本初演をされた朝比奈 隆氏からもコメントをいただきました。コンサートでの大熱演にアンコールのアンコールまで要求され、 第4楽章が再び演奏されました。これは舞台袖から見ていても感動的だったと思います。余談となりますが、私は楽屋でスピーカーから流れる ベートーヴェンを聴きながら泣いてしまい、さらには「打ち上げ」を欠席。ということで、パートの先輩方を心配させ、 せっかくの熱演の後に水をさしてしまい、本当に申し訳なかったと未だに反省しております。
【第34回定期演奏会】。またもやメインが難曲[ショスタコヴィッチ=交響曲・第5番]でこの年の4回生の先輩方は私たち 初心者を苦しめてくださいました。サマコンの雪辱に燃えねばならない私は早々にこのメンバーからはずれておりましたが、 何度も聴くうちにこの曲の奥深さにはまっていったのであります。
サブメインが[ブラームス=「ハイドンの主題による変奏曲」](主題のコラールは今でも私が指導する小学生のブラスバンドが 練習に使っている関係で当時の記憶も鮮明に蘇ってきます。)そして[ベルリオーズ=「ローマの謝肉祭」序曲]。 この曲の後半の3連音符は何度も練習しましたが、合奏の度に空しさが残ってしまったものです。会場はアルカイックホール。 指揮は岡田司氏でした。
この期の4回生の先輩はなかなか豪快な方(2回生にはそう見えた)が多く、学生指揮・Cl の野村さん、Fg の竹内さん、 Tp の芦田さん、Tb の穐鹿さん、Hr の浜田さん・・・。まだまだ濃いキャラクターが勢揃いしていたように思います。合宿のアンサンブル大会での 名演の数々…。秋の但馬路は県北の、とある町での音楽祭に出演した夜の宿舎での話。例によって4回生が集まって飲んでおりました。 何度も歓声が上がりその後酔って出てこられた先輩曰く「アンコールは『マイスタージンガー』。当日、曲の頭で客席が「どひゃ〜!」と、 どよめいたのを記憶しております。先輩方は教養オケ(今もあるのかなあ)で演奏した曲。つまり自分たちがスタートを切った思い出の曲で 締めくくられたわけです。以上、僭越ながら、神大オケの底辺で燻っておりました1セロ弾きの思い出話です
私は自分自身の勝手な都合で85年春に休部そして秋に退部しました。そんな私ですので、86年サマーコンサートについては、 内容が不十分である点をお許しください。私のいた学年もそれなりに個性の強い者がそろっていたように思います。ところが、淡路島の新勧コンパで 顔合わせをした仲間も、1人、2人と退部していき、4回生のサマーコンサートの時点で14人になっていました。さらに、ヴァイオリン奏者不足で 自分達の代のコンサートマスターがいない(大教大3回生の柴川さんにお願いしていました)という苦しい状況でした。それでも、 団長の河野君を中心に14人の強い結束でそんな状況を乗り越えてきました。
《86年・サマーコンサート》は[ロッシーニ=歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲、ドビュッシー=「小組曲」、 チャイコフスキー=交響曲・第5番]でした。学生指揮は本村公玄君。現在は奈良県では有名な吹奏楽指導者です。客演指揮は堤 俊作氏。 堤さんの神大オケ指揮は前年に続いて2回目でした。「迷った挙句に」、私も客席で聴いておりました。でも、「私などが・・・」と打ち上げ 参加は遠慮させてもらいましたが、後日、そのことを小南君(Cb)に叱られました。その小南君が数日後に自ら命を絶った事は忘れられません。 サマコン当日しきりに写真を撮りまくっていたそうで「自分の人生の最後の一場面」としたのが1986年7月8日の神戸文化ホールでした。 この悲しい出来事にはこれ以上触れたくありませんが、共に生きることができた3年間と数ヶ月を胸に、彼の夢と同じであったろう道を歩んでいます。 彼の死をきっかけに私はかつての仲間と会うことが出来、神大オケに復帰への思いを強くしたことは偽らざるところです。 こうして、定期演奏会へはかつての仲間とともに歩んで行くことができました。
【第36回定期演奏会】は、指揮・金 洪才氏と学生指揮の本村公玄君で[ベートーヴェン=「エグモント」序曲、 ファリャ=バレー音楽「三角帽子」より第二組曲、ブラームス=交響曲・第2番]でした。コンマスは3回生でしたが弦のリーダーとして 岩田暢子さん(医師)が弦をまとめ、みんなを引っ張っていってくれていました。
今回の執筆をしながら「私にとって神大オケっていったい何だったのだろうか?」という問いの答えが次第に見えてきたように思います。 私は大学に入ってチェロに出会い、本格的な合奏というものも初めての経験。そんな中で自分を見失い、どんどん泥沼にはまっていったようにも思えます。 しかし、すべてが今の自分へのスタート地点でもあったように思います。やっとのことで卒業した後、運良く小学校教員という職に就くことができ、 感動と過労の毎日を送りながらも毎週レッスンに通い、基礎から勉強し直すことができました。市民オケには入らず、岡山ジュニアオーケストラを 手伝う傍ら、そこでの人脈を通じ、金管、木管や打楽器のレッスンも受けることができました。現在の音楽活動は小学校の吹奏楽指導のみとなって いますが、何年かに1回、あの思い出のたくさん詰まった「神戸文化ホール」に自分が育て上げたバンドの子どもたちを連れて行き、 ステージで棒を振る・・・。幸せ者の私ですが、原点は神大オケにあったことを確認した次第です。 「親切にしていただきながらご恩返しできなかった先輩、同級、後輩のみなさん。ありがとう!」。
= 家舗 圭司(平成元年・B-37,Vn)
《87年・サマーコンサート》は、当時新進気鋭で売り出し中の円光寺雅彦氏を客演指揮者に迎えての [ムソルグスキー=交響詩「禿山の一夜」、グリーグ=組曲「十字軍の兵士シグール」、ブルックナー=交響曲・第4番]の3曲プログラムでした。
ブルックナーという大曲に挑むと同時に、オープニング・サブメインともなかなか手ごわい曲であったため、練習は当初からハードな ものであり、精神的にも大きなプレッシャーがありました。とりわけブルックナーは(少なくとも私の感覚の中では)それまで演奏してきた チャイコフスキーやブラームスの交響曲とは異質で、一種独特の雰囲気を持った曲であったため、パートトップを努める4回生の先輩方をはじめ、 我々3回生にとっても、音作り・曲作りは試行錯誤の連続だったと記憶しています。特に弦楽器奏者を悩ませたのは、ブルックナー独特の「トレモロ」 でした。練習でまともに(真面目に?)演奏すると、手首や腕が疲れて長続きしない。手首や腕が疲れるとトレモロ自体が雑になり、アンサンブルに 悪影響を及ぼす、という悪循環に何度も陥りながら、求められる「理想のトレモロ」を追い求めたものでした。「ドイツの深い森を連想させるような 奥行きのある響き」が自分の中での理想でしたが、理想と現実に大きなギャップが存在するのは世の常です。正直言ってこの曲を演奏することになる までは、ブルックナーという音楽にそれ程親しみがあったわけではなく「いったいどのように演奏すればいいのか?」などと柄にもなく悩んでいた ある日、練習に遅れていった私は、学生会館6階の大ホールの後ろで、第1楽章の練習の様子をしばらく見学していました。展開部が終わりに近づき、 金管が奏でるコラールの響きを耳にしたとき、「これはまさに教会で聞くオルガンの響きだ!」と、目から鱗状態になったことを記憶しています。
円光寺氏が練習に参加されてからは、的確かつ丁寧なご指導のもと、氏が考えるブルックナー像が徐々に団員にも伝播し、 曲作りが進行していきました。情熱はあっても技術の未熟さ故に氏の要求に十分応えられないもどかしさを感じつつ、そのまま本番に突入します。 本番は、我々の技術レベルがそのまま反映された演奏でしたが、大曲をやり遂げたというそれなりの充実感はありました。しかしながら、 少なくとも個人的には、氏の求めたブルックナーは結局未完成に終わったとの印象は拭えず、心の中で不完全燃焼を感じつつ、 【第37回定期演奏会】へと進みました。
【第37回定期演奏会】は、客演指揮者に神大常連の金 洪才氏を迎えて[ラヴェル=古風なメヌエット、 マーラー=交響曲・第1番]という2曲プロでした。
この年の4回生の先輩方は、ブルックナー・マーラーという大曲をやろうというチャレンジ精神と、 これら大曲を正面突破しようという(良い意味での)勢いみたいなものを持ち合わせていた学年だったと思います。
マーラーは、その演奏に際して、技術的な難しさを伴うだけでなく、変化に富む曲の表情をいかにメリハリをつけて表現するかと いう難しい課題にも同時に取り組まなければならないという意味で、まさに大変な曲でした。なにしろ、チューニング音(A)で始まる第1楽章は、 主題が次々に展開し、その後の第2楽章で牧歌的表情を見せたかと思えば、第3楽章の葬送行進曲へと進み、第4楽章では激しい情念に支配され たような苦悩の表情からクライマックスの勝利の歌へ導かれるわけですから。練習や合宿のメニューは、当然のことながら、そのほとんどの時間が マーラーに割かれました。最初のうちは、技術的な困難さの前に、「前進ままならず」といった状態でしたが、4回生のリードのもと、 「何とかこの大曲を仕上げる」という気概が次第にオケ全体を支配するようになり、団員の気持ちが一つにまとまっていきました。
金 氏の持ち味は、変に飾らない、どちらかと言えばあっさりした指揮をされるところにあると思いますが、マーラーに対しても、 この持ち味が存分に発揮され、我々を一つの方向に導いて下さいました。そして、本番へ向けていよいよ練習は大詰めを迎え、 心の高ぶりとともに異様な盛り上がりを見せてきます。
本番当日、オープニングの[古風なメヌエット]は無難に終わり、休憩後いよいよマーラーを迎えます。 本番独特の緊張感に満ちた雰囲気のもと曲が開始されます。金 氏の棒は次第に熱を帯び、演奏者・聴衆ともに氏の指揮に自然と 引き込まれながら曲は進行し、気が付くとそこはもう四楽章の感動的なクライマックスといった感じでした。
アンコールの[マスカーニー=「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲]を演奏し終えた4回生の先輩方の表情は一様に晴れやかで、 満足感に満ちていたのが印象的でした。口幅ったい言い方ですが、このマーラーは、技術的な未熟さや演奏中のミスといったものを超越した、 学生オケらしい情熱に満ちた名演だったと今でも思っています。また、この曲のクライマックス同様、私自身の心の中も、 それまでのもやもやしたものから開放され、大きな満足感・充足感とともにその年を終えることができました。
= 窪川 敬二(平成元年・B, Hr,指揮)
前年の昭和62年(1987)度にブルックナー、マーラーの大曲を続けてやった反動か、或いは、前年には9人もいた金管が、 私を含めて僅か2人しかいなかった寂しい編成のせいか、はたまた、あまり裕福とは言えなかった財政的理由からか、昭和63年度の選曲は、 こじんまりとした編成で演奏可能なものばかりでした。
《88年・サマーコンサート》では、当時ホルンに相当自信を持っていた私は、フォーレとブラームスの2曲のホルンに専念 させて頂き、指揮は梅田俊明氏にお任せして[ヴェルディ=歌劇「運命の力」序曲、フォーレ=組曲「ドリー」、ブラームス=交響曲・第3番]を 演奏しました。ブラームスは難易度の高い曲ということで、かなり思いきった選曲でした。某大学の選曲会議で「神戸大のブラームスの第3番は無謀だ」 なんていう発言が出た、との噂話も聞こえてきて「何言ってんねん、見取れや!」と言う感じでやる気満々、ファイトめらめら、燃えに燃えました。 その結果はかなり納得のゆく演奏だったと考えています。これは、梅田氏と言う良き指揮者にめぐまれたおかげであったと思います。
氏は前年の指揮者・円光寺氏の紹介で来て下さった方ですが、当時まだ若いながらも非常に熱心で、音楽的にも基礎的なところから かなり突っ込んだところまで指導して頂き、演奏の質の向上に確実に好影響を与えたと思います。そして大変粘り強さのある棒という印象でした。 定演の「運命の力」序曲は舞台の袖で聴いていました。本番直前までどうしても上手く決まらなかった練習記号Fの1小節前の弦のEの音(弾いてた 皆さんはどうぞ楽譜を見て下さい)が心配でウロウロしていたのですが、何と言うことか、それまで聴いた事がない程ばっちしの音程で決まり (余韻を数秒間、固唾を飲んで聴いてました)、思わず「オオ!。ヨッシ!」と小さい声ながら叫んでしまい、今度は自分の声が客席に聞こえなかった かと心配してしまいました。これで、この演奏会は勢いに乗ったのかもしれません。
【第38回定期演奏会】は、梅田俊明氏と私の指揮で神戸文化大ホールで行いました。 曲目は[ウェーバー=歌劇「オイリアンテ」序曲、チャイコフスキー=バレエ組曲「白鳥の湖」より (Ⅰ情景ⅡワルツⅢ白鳥の踊りⅣハンガリー舞曲)、シベリウス=交響曲・第2番]でした。
「オイリアンテ」では辛い思いをしました。それと言うのも、選曲に際して「フィデリオ」の金管が非常に難しいと考えていた私と、 「オイリアンテ」は初心者の弦楽器には難し過ぎると言う意見のどちらを採るかで、私が強く推した結果、あまり気持ちの良くない(すっきりしない) 決まり方をしてしまい、コンサート・ミストレスの竹中さんから「このままではまずいから会議のやり直しをした方が良い」と諌められたりしましたが、 当時の私の人格の至らなさからそのままにしてしまいました。その上、曲がなかなか上手く仕上がらず、かなりまいっていました。本番近いある日の 練習後にOGのお姉さん方に慰められて、思わず涙してしまったと記憶しています。私達の年代には、伊達純子(Fg)、中野隆史(Tbn)、 長谷川憲孝(Vc)さん達のような楽器演奏の上手な人は結構いましたが、選曲に際しては確たる持論がなく、どうしても自分達のパートの満足度が 優先していた様に思います。ただ、本番終了後、梅田氏が本番は立派だったと言って下さって、何とかほっとした次第です。
* 梅田氏のギャラの面でも親切(?)でした。円光寺氏より「彼のギャラ、練習は1万円でいいから」と言われた我々が、
1時間の単価であったのを1回の練習(3時間)分と勘違いしていたのに、最初の半年間じっと黙って耐えて下さり、
しかもその勘違いに我々が気がついた時も、今後のギャラを正しくすれば良いと言って下さって、
貧乏財政で、けちけちしていた我らとしてはこんな所でも大いに感謝した次第です。
(確か東京から来て頂いていました)。
私は学生指揮を担当させて頂きましたが、気持ちとしてはあくまでも先ずはホルン奏者であり、自分の前後の指揮者の方々に比べると 趣が多少違っていたのかなと思います。とにかく1日中ホルンを吹いていて、大学では学生会館にいる皆が昼飯を食べるのに遅れないように行って、 コープランチを食べたらその後は帰るまでずっとホルンを吹いてました。そんな事もあって前述の如く《サマーコンサート》では本番の指揮を すべて梅田氏にお願いし、自分はホルンに専念させていただきました。
とは言っても指揮者となったからには色々と学ばねばならぬ事がありました。その中で特に心がけた事は、 管楽器奏者出身の指揮者として出来る限り弦楽器の事を理解するということでした。弦の分奏をするのも皆の納得のいく良い練習が 出来るようにするためということもありますが、自らが他のセクションの事を良く理解しようとすることで、当時何となく感じられた 「弦は弦、管は管、打は打」といった雰囲気を「お互いに相手のセクションを理解し、気配りをして、その結果良いアンサンブルの 出来るオケ」に変えていこうという風にも考えていました。どこまで結果が出せたかは疑問ですが、この課題については、 1年上級の弦のトップの皆さんに非常に親切に指導して頂いたと記憶しています。
指揮者の私の練習は指揮者というよりは極めてトレーナー的なやり方で、指示も出来るだけ具体的にお願いし、 「現在の状態」と「やって欲しい演奏」を歌い分けて説明したりしていました。極めて現実的で、芸術的な優雅さがあまり無く、 ある意味押し付けがましかったかもしれませんし、随分しつこかったので辟易した方も多いと思いますが、皆さんも厳しい練習に良く耐えて 下さいました。その結果、当時出し得る実力のすべてを出して演奏することが出来たと思っています。個々と言う意味では、 多くの人が本番に一番良い演奏をし、全体としても本番が一番良かったと思います。本当に皆さん弦も管も打も良く練習してくれました。 夏合宿でねじり鉢巻きでトップ合わせをしていた弦トップ陣のファイト溢れる姿なんかは、非常に印象深い記憶の一つです。また、 弦楽器の歴代名手のOB・OGや他大学の名手まで多数の方々のご協力を賜る事が出来た事も成功の要因として見逃せない事と思い 大変感謝しております。 演奏終了後、お客さんが帰っているロビーでクリスマスソングの金管アンサンブルをやったのも思い出の1つです。 私と1人しかいなかった金管の相棒の中野君(バストロ)とその他5人でひそかに企画し、本番終了後あわただしく実施しました。 始めるときにOBの津田さんが得意の目立つ声で「イェー」と言って拍手してくれたお陰でみんなが注目してくれました。 譜面台が契約外の不正使用になり、ホールの人に少し叱られたりしましたが、演奏自体は非常に好評でした。