【神戸大学交響楽団の歩み・戦後の活動(1948-1975)】

   = 千葉 修二(昭和28年・E,Vn,指揮)

当時、食糧難のため、僅かに配給された砂糖で作ったカルメラだけの朝食では、六甲台への坂道を登りきれない (勿論、乗り物は無く、足だけが頼り)教授・学生もあったと言う《第二次世界大戦後の暗黒時代》もようやく過ぎ去ろうとしていた 昭和23年(1948)春。神戸経済大学・予科2年生になり、アルバイトの稼ぎ5,000円を投じて買ったヴァイオリンを習い出した私に少し遅れて、 予科有数のバンカラ{弊衣破帽、腰に手拭、高下駄にマント姿}で鳴らしていた男が、時々ヴァイオリン・ケースを提げて現れるようになりました。 ある日、隣の教室からヴァイオリンの音が聞こえて来たので覗いてみると、その石原幸雄君が教壇の上で自信満々の実演のまっ最中。 横でニャニャ笑いながら聞いていたのがグリー・クラブで馴染みの岡島耕市君。何を勘違いしたのか(これが当時の同級生の確かな評価!) バンカラの彼がヴァイオリンを習い出していたことが判明。たちまち一緒になって音楽談義が始まり、翌年の春頃には、 我々3人は恥ずかしげもなく、放課後の六甲台の教室で3重奏らしきものをやりだしました。

一方、六甲台本館の302教室にあったオンボロ・ピアノで、休み時間になると決まったように同じメロディを得意然と 弾く男がいました。当時、クラシックに造詣が深いと自認していた私にも、その曲名が分かりませんでした。尋ねると「ショパンの雨だれ」や、 と言う返事。彼はアルバイトの大家として知られ、グリー・クラブの仲間でしたが、音楽は柄でもないと衆目は一致していました。 その円満字正和君が突如「俺にも何かやらせろ」と飛び込んできました。当時オーケストラについて明確な知識を持っている者もなく、 とにかく仲間が増えることなら何でも良いと言うことで、『円満字は手がデカイからチェロでも弾け、岡島は器用そうだからヴィオラに転向しろ、 石原は私よりは上手そうだからファースト・ヴァイオリン』と衆議一決。ここに戦後の輝かしい神戸大学オーケストラの第一歩が始まりました。

* その間の事情について「あ・てんぽ」第1号で円満字君(旧制23回)が書いています。 = 石原・岡島・千葉と私は予科のグリークラブに属していたが、音楽を通じての友人と言うより何となく気の合った友達だった。 (中略)。チェロを軽い気持ちで引き受けたが、当時の私はチェロと言う楽器を良く知らなかった。偶然通り掛った神戸・元町で中古のチェロ らしき物を見つけた。当時、アルバイトの競輪の予想屋で鍛えた度胸と行動力で交渉の結果、2,000円の手付金で総額12,000円の〈鈴木2号〉 の楽器の留保を頼んだ。有る時払いで半分ほど支払った頃に、店主が「残金は出来た時払いで良い」と言ってくれた。先生はアメリカ・ 英国で学び8年間BBC響の4番を弾き、当時BKのオケ在籍の偉大な師・富田政雄先生だった。半年くらいは真面目に指導を受けたが、 「お前と飲んでる方が楽しい」とレッスンのたびにウィスキー一本が空になった。 (富田先生にはその後[動物の謝肉祭]で白鳥の ソロ・パートを弾いて頂きました)

細々と、しかし夢はデッカク船出した私達の前に思いがけないプレゼントが出現しました。 先輩の記憶(前出・西村俊一氏談)をたどって探した六甲台の倉庫の中から、ファゴット・コルネット・トロンボーン・チェロ・コントラバスを 見つけ出したのです。また集金能力抜群の石原マネージャーは先輩を駆け巡り、その寄付金でフルート・オーボエ・ホルンを調達してくれました。 また、最初はリサイタルの後援を頼まれたのがご縁で、その後、陰の協力者として財政的な援助に貢献して頂いたピアニスト・田村 宏氏 (とお弟子さんであった広岡氏)のことも忘れる事は出来ません。が、そのためには、全員で会場の設営・ポスター・プログラムの制作、 切符の販売、入場税の免除を求めての税務署との交渉など大変でした。しかし、そのお陰でホルン・ヴィオラなどを揃えることが出来ました。

かくして「類は友を呼ぶ」の言葉どおり、予科・学部合わせて11人の大楽団?になりました(内訳は、ヴァイオリン7、チェロ2、 クラリネット1、金管アルト(Alt・bugle.1)。指揮者には、ピアノ・ヴァイオリンに堪能で、グリークラブの指揮者として活躍しておられた、 柚花 昭氏にお願いして、その年の夏休み前頃には、何とか少しは音楽らしい音が出るようになりました。

さらに、昭和25年(1950)、新制大学の発足に伴ない、高橋一三・中本規久生氏を始めとする新制高校での管楽器経験者を 獲得出来たのは誠に幸運でした。しかし、彼等にとってもオーボエ・ファゴット・ホルンなどは、見るのも初めての上、教則本も先生もなく、 厚かましくも「日響(現在のN響)」の演奏会の楽屋裏まで押しかけて、ウィーンの本場から来ていた団員などから、リードの作り方を教わったり、 現物を頂いたり苦労の連続でしたが、短時日の間に何とか音が出るようになったのは彼等の努力の賜物でした。

次に困ったのが楽譜です。市販のものは全く無く、私のヴァイオリンの先生から拝借したり、古本屋を探し回って戦前のレコードの 付録の小型スコアを見つけ出して、当時の手持ちの楽器編成に合うよう、私が手探りで編曲をしました。このため、ヘンデルの[水上の音楽]の ホルン・パートを1本のホルンと1本のアルトで吹くと言う珍芸をやったり、ピアノの原曲のままでは、シャープが多過ぎて弾けないので、 変調して編曲を始め、プログラムには載せたものの、譜面が演奏会に間に合わず、夢の演奏となった曲もありました。次に、私の作ったスコアから パート譜を書くのも大変な作業でした。当時は現在のようなコピー機は無く、すべて手作業。講義を聴きながらの写譜もしばしば。 当然写し間違いも多発します。しかも、部員が増えれば増えるほど作業は大変になります。

当時の私達は、一方に学資稼ぎの真剣なアルバイトがあり、他方に難しいゼミもあり、我々4人を中心に全員が一丸となって、 大車輪の活動でした。資金集めを含めて学内外の問題一切は「骨身を惜しまぬ」石原。会計や譜面管理に関しては「何となく信頼のできる」岡島。 部内の統制と部員の獲得などは「外見は怖そうだが根は優しい」円満字。演奏関係は曲目の選定なども含めて「自称・音楽の分かる」千葉。 誰も文句一つ言わずにやれたのが不思議なくらいでした。

* 資金面では相変わらず苦しい状態でしたが、家本教授(統計学・ご身もチェロを弾かれた)を部長に祭り上げ、 大学当局に対する度重なる懇願が効をそうして、昭和25年(1950)に、ようやく大学の正式な部として認められ、年間10,000円 (当時のサラリーマンの初任給が5,000円位)と言う破格の予算を頂く事が出来、少しは楽になりました。その後は調子に乗って、 毎年少しずつ楽器を補充して貰い、我々の卒業前には、ついに待望のティンパニー1対を買って頂きました。

練習場の確保も一苦労でした。最初は職員食堂、次に(焼失した)学生食堂の2階、さらに、神戸の雲中小学校の教室に移り、 練習は毎回午後から深夜に及び、指先から血がにじみ疲れきって家路についたことも、しばしばでした。技術力の不足を補うためには練習しかなく、 とにかく、曲を覚えるまで根気良く繰り返したものです。=「あ・てんぽ」第7号の石原君の記事。

練習になればなったで、始めに基音の「A」を合わせるまでが一苦労と言うより一騒動。楽器も少しずつ整ったとはいえ、 大学当局に懇願してティンパニーを購入してもらうまでは、笹井克巳君の練習は机を叩いてのイメージ・トレーニングの連続で、やっと演奏会前日に、 自動車部のオンボロ・トラックに載せて関学から借りて来たティンパニーで仕上げの猛練習。これで大きな失敗が無かったのは奇跡のようです。

部員が増えても部員だけではまともな曲が出来る訳にはゆきませんので、BKオーケストラのメンバーにエキストラを 頼む事になりますが、今と違ってプロと言っても玉石混合。プロ意識だけは高いため、練習なしのブッツケ本番が常で、どんな音が出てくるか、 毎回ヒヤヒヤの連続でした。

それ以外にも学外から毎回の練習に参加して頂いた{白系ロシアの美少女・戦前のニユーヨーク・フィルでホルンを吹いていたと 言うおじさん・(前出の)富田先生・その後「京響」に入団された円満字君の兄弟子達・上級生の妹さん・良くサボられて困ったクラリネット吹きの 大学事務職員・阪大や大阪市大の常連の学生さん}。本当に沢山の音キチ達に助けられて、今日の隆盛があるのです。

名指揮者であった柚花氏は、その後全体の強化のため、コンサートマスターとして演奏されるようになり、何とはなしに私が 指揮を引き継ぐ事になりました。

『この恐ろしく小さなオーケストラは、いつも楽器が揃わず、当然、出来が良い悪いどころの騒ぎではなかった。私には余計なことを 考えている暇などなかった。頭の中はいつも音楽をどう鳴らせば良いのかと言うことで一杯だった』
   (カラヤン自伝を語る= 白水社刊)。

* これは大巨匠カラヤンが、最初にドイツ・ウルムの歌劇場で、僅か23人のオーケストラを率いて指揮をした際の経験を 語ったものです。が、後年、この文章を読んで、オーケストラを作り上げる難しさへの思いは、(質は違っても)私と同じだったことを知りました。

* 今の方達は指揮について、どんな勉強をしておられるのか知りませんが、戦後間もないその頃は、 プロのオーケストラの指揮者でも、海外の本場で勉強された方は少なく、逆にその故に、素人の私の質問にも気軽く答えて頂き、 教えてもらう事が出来ました。また、ハンスリック・フルトヴェングラーらの音楽美論や、ベルリオーズ・ワインガルトナー・近衛秀麿など 数冊の指揮法の本を読み、レコードを聴いての必死の勉強をしたものです。そんな事もあって、私が大学を卒業した時、 親父に「同じ学士(経済) でも、お前のは楽士の方だ」と言われたものです。

☆ 昭和 (戦後) 年代の活動 ☆

かくして、感動的な第1回の発表の舞台は同年末に行われたESSのクリスマス・パーティの席上でした(戦前と同じめぐり合わせ?)。 曲目は小学校の教材で見つけて編曲した[モーツァルト=玩具交響曲・メヌエット]と[聖夜]。とにかく全員が一緒に始まり、一緒に終わってホットした 事と教室で焚かれていた石炭ストーブ(当時、唯一の暖房装置)が、むやみに暑かった事だけを覚えています。

その後は、頼まれるままに心臓強く、マンドリン・クラブへの賛助出演や幼稚園巡りを行いました。曲目は[軍隊行進曲・ガボット・ コッペリアのワルツ]などでした。まだ誰もオーケストラなど、見た事も聞いたこともない時代であったればこそ出来たものです。

* 練習は土曜日の午後、六甲学舎本館の西側の教室でした。部員は14・5人で、[玩具交響曲やガヴォット]などを やっていました。部員のほとんどが初心者で技術的にも幼稚なものでした。私もフルートを始めたばかりでしたが、ただ一生懸命吹いていました。 簡単な3連音符がどうしても合わないと言うこともありました。ある程度練習すると、その成果を発表したいとの欲が出てくるのは当然の成り行きです。 ESS のクリスマス・ パーティに出演したのが、私の初舞台です。何しろ人前で演奏するのは初めてでしたし、[ハイドン=メヌエット]の中間部に フルートのソロが出てくるのです。半ば緊張に震えながら、夢中で吹いたことだけが記憶に残っています。モーツァルトのピアノ協奏曲をやると 決まった時の私の喜びは大きなものでした。練習に先立って、レコードを聴き、それからは来る日も来る日も練習はその曲ばかリ。 実に根気良く練習し、自分のパートは全部暗記した程でした。それでも本番ではアガッテ勘定を間違え、フレーズを一つ抜かしてしまいました。 第2楽章で、分散和音に乗ってクラリネットの主題の哀調を帯びた旋律が流れてきた時、私はモーツァルトの虜(とりこ)になってしまいました。
   = 高橋一三氏(昭和29年・B2,Fl)

オーケストラとして本格的な曲は[モーツァルト=ピアノ協奏曲・第23番・イ長調]でした。 初めてのモーツァルトに魅せられた団員は、半年間飽きることなく、これ1曲に集中し[シューベルト=ロザムンデ舞曲]などとともに、 昭和26年(1951)5月に山手女子学園講堂で行われた大学祭・音楽会にメンバー33名を揃えて出演し、これが事実上のデビユーでした。

「音楽以前」と揶揄(やゆ)する者もいましたが、我々の情熱は衰えず、一方、大学オーケストラの出現は話題を呼び、翌月には、 兵庫高校の新入生歓迎会に招かれ、小品の演奏と合唱曲「流浪の民」の伴奏をしたり、 12月には、マンドリンクラブの第3回発表会に賛助出演しました。

* 当時、六甲台の講堂・プールはアメリカ占領軍に接収され、六甲台本館の周りには、占領軍の家族住宅が立ち並んでいました。 講堂は映画館として使用され、大学としても使うことが出来なかったので、大学祭の実行委員達が探し回って見つけた会場が山手女子学園でした。 その後、何としても大学講堂で演奏会をやりたいの一心で、私(千葉)は、アメリカ軍の許可を取るため、神戸・大丸百貨店にあったGHQ(占領軍司令部)に ツテを介して入り込み最高の地位にあった少将閣下と面談を重ねました。学校当局の働きかけもあって、ついに、舞台上に設置された映画用のスクリーンを 傷つけない事を条件に許可されたのは、翌年の6月のことでした。

輝かしい【第1回定期演奏会】は、親和女子高等学校講堂を借りて、昭和26年 (1951)11月に60人のメンバー (うち正式メンバー53人)を揃え、曲目は[モーツァルト=〈弦楽小夜曲〉からメヌエット、グリーグ=〈ペールギュント組曲〉から「オーゼの死」、 ビゼー=〈アルルの女〉から間奏曲、ヘンデル=〈水上の音楽〉からアレグロなどの小曲、ハイドン=ピアノ協奏曲、 モーツァルト=交響曲「ジュピター」]で、特にジュピター交響曲の終楽章のフーガの演奏は、全員が興に乗り、大変な名演奏を披露して、 400余人の聴衆に感銘を与えました。

翌27年(1952)6月には、戦後初めて大学講堂で神戸大学創立49周年音楽会が催され、グリー・クラブ、マンドリン・クラブなどと ともにオーケストラも出演し、36名のメンバーで[ショパン=プレリュード、ハイドン=時計交響曲・第2楽章、サンサーンス=組曲「動物の謝肉祭」、 シューベルト=軍隊行進曲]などを演奏しました。「動物の謝肉祭」は、妻のピアノの先生である松井克之・音大教授にお願いして、恐らく最初で最後と 思われる、2台のグランド・ピアノを舞台に並べての派手な演奏でした。別に、奇をてらった訳ではありませんが、ハイドン・ウエーバーのピアノ協奏曲、 サンサーンスなど、偶然にも、第二次大戦後の関西初演を果たしたことになりました。

同年(1952)11月には【第2回定期演奏会】を50人のメンバーで大学講堂で開き[シューベルト=未完成・交響曲、 ウエーバー=ピアノ小協奏曲、シュトラウス=ワルツ「南国の薔薇」・「朝刊」、ヴェルディ=歌劇「アイーダ」の行進曲]などを演奏して、 バトンを浅田 浩氏に引き継ぎました。

【閑話休題】= 私の無責任・雑感

* 曲のテンポは誰が決めるのでしょうか?。今更言わなくとも作曲家・指揮者・演奏者でしょう。残念ながら、初期の神大オケのテンポは、 作曲家に忠実でありたいと思いながらも、部員の演奏技術によって決められる部分もあった事は事実です。が、今にして思うと、モーツァルトの 「ジュピター交響曲」のテンポは、私の思い通りに速くなりませんでしたが、最近の古典的奏法を行っているプロの演奏を聴くと、満更、 間違っていなかったとも思います。(言い訳?)

* 色々の曲を演奏して技術的には大分進歩してきたオーケストラでしたが、未完成交響曲の練習では第2楽章の弦楽器の シンコペーションがどうしても出来ないのです。現在の人達はジャズなどを通じて良く知っているシンコペーションも、当時の我々にとっては、 とてつもない厄介者でした。どうしてもクラリネットのメロディに引きずられるのには、本当に苦労したものです。

*なお、今日のオーケストラ隆昌の基礎を築いて頂いた
    【第一回定期演奏会】の出演者の方々のお名前を、記して置きたいと思います。
  柚花 昭、渡辺雄央、米田 功、長沢 宏、浅野 敞、大宮信次、円満字正和、
  岡島耕市、石原幸雄、千葉修二、浅田 浩、安本弘、松本輝雄、高橋一三、
  吉田 昭、田村 晃、万代厚彦、松川欣一、中塩敬介、渡邊昭朗、亀沢芳久、
  西村照芳、岡 稔、中安 猛、池田吉輝、 中本規久生、高橋祐一・兄妹、
  岡林隆春、柴田利男、千葉敏夫、板東 慧、小松幹代、梅谷敏郎、島本憲一、
  食満悦三、光本 晟、中村 晋、柴田 昭、大森 稠、上野伊太郎、中村 隆、
  井町 昭、三木昭二、平田淳二、西村 功、森山貞信、植村和男、土佐欽也、
  田中欽也、厨子忠純、小林弘学、 (順不同・敬称略)

   = 浅田 浩(昭和29年・J-1,Vn,指揮)

昭和27年(1952)秋の【第2回定期演奏会】で初めて[シューベルト=「未完成」交響曲]を指揮して 戦後第2代目の学生指揮者となりました。ようやく少しはオーケストラと呼ぶに相応しい形にはなっていましたが、楽器を揃えるため、 食糧難の空腹を抱えながら、夏の暑さの中を先輩方の援助を求めて会社巡りをしました。また、当時小・中学校には認められていた 楽器購入補助を大学にも適用してもらって、コントラバスの弓を何とか購入したいと役所通いも繰り返しました。

さらに、[ベートーヴェン=交響曲・第1番やメンデルスゾーン=ピアノ協奏曲]を演奏するために、 78回転のSPレコード(当時はLPなどなく、 貴重な音源でした)が擦り切れるまで聴いたり、占領軍向けのFEN放送を毎日聴きました。指揮するためには音楽の勉強が必要と考え、 東京音楽学校(現在の芸大)の通信講座で音楽通論・和声学・音響学などなどを学びましたが、途中で肺結核となり、断念しました。

当時は、会場を移動するのも大変で、今の様に簡単に頼めるトラックもなく、コントラバスなどの大型楽器の持込を阪急電車に拒否され、 駅長と運送規約を持ち出して議論して、ようやく乗せて貰ったこともありました。

   = 笹井 克巳(昭和31年・E-4 ,Tim)

昭和27年(1952)六甲台の入学式の校庭で〈オーケストラ部員募集〉のノボリに引かれて、同期の藤田耕一君と立ち寄ったのが 因果の始まり。神大オケとの終生の付き合いとなった。演奏出来る楽器を尋ねられ、「楽器は大太鼓!」と答えた時の先輩の一瞬の戸惑いの表情を 今でも覚えている。何故なら、私の叩くべきティンパニーが、当時は無かったからだ。さらに木管楽器類の状態はひどいもので、いくらタンポを 取り替えても息漏れのする音色を、卒業時まで聞かされものだ。ティンパニーが購入されたのは、翌年のこと。授業料が年額6,000円、サラリーマンの 月給が10,000円弱の時代に、50,000円もする楽器を、先輩達の熱意に負けたとはいえ、よくぞ大学が買ってくれたものだと思う。そのティンパニーを、 所属していた自動車部のオンボロ車の後部座席に乗せて、練習場・演奏会場を走り回ったものである。

復活直後のオーケストラのメンバーは、六甲台が 主体だったが、部員が増加するにつれて、メンバーの在籍する学部・学舎は六甲・西代・御影・住吉・姫路(当時は、西明石から汽車に乗って2時間!)など 地域的な広がりとなり、このように各地に散らばっている部員を、彼等のアルバイトの時間をも考慮しながら、一同が最も効率良く会することの 出来る練習場をどこに求めるかが、部運営の最大関心事であった。部員は増えつつあったが、閑散時には弦のパートがやっと一人づつと言う状態も しばしばで、音楽演奏集団の体をなさなかったこともあった。が、集まった連中は懸命で「オーケストラ活動をするために来た」ことをお互いに 確かめ合いながら頑張った。

練習場として六甲台の講堂は使用できず、神戸市内の熊内の幼稚園を見つけ出した。が、ここも幼稚園とトラブルを起こして追い出されるハメとなり、次に見つけたのが、神戸・元町の日本楽器(ヤマハ)の3階にあった薄汚い倉庫のような会議室であった。ピアノはあったが、勿論冷暖房は無く、20人も入れば一杯。コントラバスなどは半開きのドアーの陰で弾くような状態であった。が、半面、交通の便が良く、練習日が日曜の夕方と言う事もあって、先輩達も集まりやすく、好評であった。

この様な苦労をしながらも、昭和28年(1953)春には【第3回定期演奏会】で[ベートーヴェン=交響曲・第1番、 サンサーンス=ピアノ協奏曲・第4番 ]を。年末には【第4回定期演奏会】として[ハイドン=軍隊交響曲、メンデルスゾーン=ピアノ協奏曲・第1番] などを六甲台講堂で演奏した。

   = 田中 清三郎(昭和33年・J-6,Vn,指揮)

昭和29年(1954)ヴァイオリンを持って入部した頃のオーケストラは、定期演奏会や開学記念祭・合宿などが定着し、 安定した活動期を迎えていた。しかし、その後の四年間は、打って変わった最悪の激動期だったと言えるだろう。その発端は、和歌山での合宿であった。 「練習のやり方が面白くない」と、何人かの先輩と私が、騒動を起こし、何とか一端収まったものの、終了後の反省会で「部をいったん解散しよう!」と 言い出す者まで現れる事態になり、数名の退部者を出し、夏以降の活動は事実上停止した。結局、その年の定期演奏会は中止となり、 大学合同のチャリティー・コンサートの出演だけに止まった。

この直後、先輩から「指揮をやれ!」と命じられ、固辞したが、結局以後卒業まで、ひたすら指揮に専念する事になった。 翌年は、前年のマイナスを取り戻すべく、演奏活動は活発になり、小野市への演奏旅行・教育学部卒演・開学記念祭と続いた。

昭和30年(1955)11月には、1年間中断していた【第5回定期演奏会】を神戸市内の海員会館で100円の入場料を取って行った。 曲目は[ベートーヴェン=交響曲・第5番「運命」、チャイコフスキー=「眠りの森の美女」]を演奏し、演奏もお客の入りもまあまあだった。翌年も同じ場所で【第6回定期演奏会】として[チャイコフスキー=「白鳥の湖」、グリーグ=ピアノ協奏曲]などを演奏した。

私の大学最後の【第7回定期演奏会】は昭和32年(1957)12月、完成後間もない神戸新聞会館で最初で最後の(翌年から 神戸国際会館を使ったため)演奏会を開き[ラフマニノフ=パガニーニ狂想曲、ドボルザーク=交響曲・第9番「新世界より」]を演奏した。当時、 この様な大ホールでアマチュアのオーケストラが公演した例がなく、まさに大冒険だった。が、発案者の横内君の思惑通り異常な人気を呼び、 当初心配していたお客の入りは、案に相違して超満員となり、開演前にはダフ屋が出没する騒ぎであつた。ラフマニノフではソリストが同じ個所を弾き直し、あわやオケ全体が止まりかけると言うコワーイ体験もしたが、演奏はおおむね好評で、お客さんが「意外と上手いな」「京大より上手だ」と言ったとか 言わなかったとかで、内心大いに気を良くしたものである。

この頃、アマチュア・オーケストラの活動が盛んとなり、神戸大・一橋大・大阪市大の旧三商大の合同演奏会(グリーとオケ)もこの頃から 始まった。第1回は昭和30年(1955)6月に、大阪・産経ホールで行われ[サンサーンス=ピアノ協奏曲・第2番、シューベルト=未完成交響曲]を 演奏して大成功を収めた。翌年(1956)は東京で[ベートーヴェン=交響曲・第5番「運命」]。第3回目(1957)は神戸・国際会館で [ラフマニノフ=ピアノ協奏曲・第2番]を演奏。その後、第4回(1958)は大阪・毎日ホールで[シベリウス=フィンランディア、 ワーグナー=「名歌手」前奏曲]。第5回(1959)は東京・神田共立講堂で[ドボルザーク=交響曲・第9番「新世界より」、 ベルリオーズ=[ファウスト」からフーガ]。第6回(1960)は神戸・国際会館で[リスト=交響詩「前奏曲」、ワーグナー=「タンホイザー」から 巡礼の合唱]。第8回(1962)は東京・神田共立講堂で[ベートーヴェン=エグモント序曲、リスト=ピアノ協奏曲・第1番、 ボロディン=ダッタン人の踊り]。 第9回(1963)は神戸・国際会館で[サンサーンス=歌劇「サムソンとデリラ」からバッカナール、ブルッフ=ヴァイオリン協奏曲、 リスト=ハンガリー狂詩曲第2番]と続いたが、存続の可否を巡り色々討議され、赤字続きの運営問題もあり、 結局、それ以後は中止となった。
             (グリー・クラブの合同演奏会は継続)。

さらに、その少し前から、音楽評論家の故・吉村一夫氏が阪急沿線の夙川でアマチュアを集めて、オーケストラの結成を目指し、 YMCAオーケストラと称して、神戸・海員開館などで4回程演奏会を行い、神大オケからも何人か参加している。

また、朝日新聞大阪本社・厚生文化事業団によって〈全関西アマチュア交響楽団連盟〉が約500名(公称)のメンバーを集めて発足し、 ここにも神大オケの有志が参加した。その第1回は昭和30年(1955)12月に宝塚大劇場、第2回は翌年(1956)11月産経ホールで行われ [ショパン=ピアノ協奏曲・第1番、サンサーンス=アルジェリア組曲]などを、阪大・甲南大と合同で演奏したが、 この連盟もいつの間にか姿を消してしまった。

* 神大オーケストラも、復活以来7年目を迎え、今では数多いクラブの中でも屈指の大所帯に成長した。僅か10数名の先輩の努力によって 発足した当時から、今日に到るまでの研鑽の上に築かれた歴史は、今後も年毎に年々新しいページを加えて行くのである。
   = 横内 昭(昭和33年・B6,Tr)

* 上手に吹けないフルートでしたが、級友でコンサートマスターの船井君の推薦でメンバーになりました。オケの戦力になったかどうかは 分かりませんが、暖かい雰囲気に甘え卒業まで在籍しました。入部して最初の仕事はテープ録音でしたが、操作が分からず散々な収録となりました。 和歌山事件の首謀者?田中さんの音楽的才能は素晴らしいもので、合宿で明日やる曲が無いとなると、一晩で唱歌や童謡の編曲を、ピアノなしで書いて しまうのには畏敬の念を覚えました。指揮ぶりは誠に分かりやすく、和歌山事件を起こしたご本人とは思えない温厚な人柄でした。
   = 馬淵 勇(昭和33年・T5,Fl)

* 入学と同時に入部しましたが、この4年間の思い出は私の心から一生消えることはないと思います。苦労が多かっただけに、 その思い出もひとしほ深く、オーケストラのお陰で悔いのない学生生活を過ごせました。数十人のメンバーが自分達の最善を尽くして演奏することの中に、 講義では学び得ない貴重な経験を積むことが出来、この活動が無駄でなかったと確信しています。
    = 船井純二(昭和32年・B5,Vn)

   = 長谷川 昌治(昭和36年・E-9,Vn,指揮)

我々9回生が神戸大学交響楽団に入った昭和32年の頃は、毎週の練習が神戸の元町阪神駅に近い、ヤマハ神戸店の裏手の3階で やっていました。10人近い同期生が練習のある日は、練習の後必ずと言って良いほどに三宮界隈を遊び回り、終電で帰れる日は良い方で、 終電に間に合わず、北野の方にあった四本君のお宅に何度も泊めて頂き、彼の優しいお母さんにいつもご面倒をかけていたものです。

今思うと、我々の学年が丁度[境目]で、人数も増えたり、学部も六甲台の所謂「凌霜」と工学部を中心に、その他の学部のバラエティに 富んだ構成となったように思います。その他神戸外語大、神戸女学院大、武庫川女子大等からの美女たちが多数参加。いつもオケの練習や本番に花を添えて 頂けただけでなく、レベルを上げて呉れていました。毎年先輩方が抜け、新入生が入ってオケの全体の活気とレベルが左右されましたが、 その頃、東大や京大或いは慶応といったところのオケでは、医学部があったためでしょうか、6年・7年といったオケ在籍の方々も居られたようで、 毎年の演奏会のレベルが高く、一定しているように思えて、メンバーの入れ替わりが何とかならないものだろうか?などと思っていたものです。 多分最近では、医学部のメンバーも多く、神戸大学のオケも、当時の東大・京大といったところに近い雰囲気、 レベルとなっているのではと想像しています。

1年生でいきなり、田中清三郎さんの指揮で[グリンカ=「ルスランとリュドミラ」序曲]と[ドボルザーク=交響曲「新世界より」] をやらされて、これはとんでもない所に入ったものと驚いた記憶があります。多分逃げ出さなかったのは、冒頭に書いたような練習後の仲間達との 楽しみが、それ以上だったのだと思います。そしてそれが一生の変え難い貴重な経験・思い出となりました。小泉さん指揮による【第8回定期演奏会】 での[ベートーヴェン=交響曲「英雄」]は、神戸高校での練習での思い出や、ヴァイオリニストのコーガンの神戸での演奏会とかち合って、 国際会館の会場の取り合いを制しての定期演奏会だったと記憶しています。

我々が4年生になって以降の練習は殆ど、赤塚山の教育学部でやったように思います。毎回タイミングの良い時はバスで阪急六甲、 或いは阪神御影駅から、時には節約して、あの坂道を若さにまかせて歩いて登ったことも結構ありました。[チャイコフスキー=交響曲・第5番]を 最後の【第10回定期演奏会】でやったことが良い思い出ですが、その前に「三商大合同演奏会」で、同志社女子大の安見泰子先生と、チャイコフスキーの 協奏曲を演奏出来たのは、チャイコフスキーを誰かが好きだったとか、推したということでは無く、全くの偶然の所産ですが、大曲・2曲をやれた事は 貴重な記念となっています。今のレベルの高い大学オケでは、ショスタコーヴィッチやマーラーを平気で取り上げると思いますが、 当時の我々のレベルでは、この2曲は思い返しても冷や汗の出そうな難曲だったと思います。 でも、それだからこそチャレンジして演奏出来たことが、今となっては珠玉の記念・想い出となっていると言えるかと思います。

* 思えば、名指揮者田中氏の後を継いでから、実に得がたい体験をさせて貰った。しみじみと悟らされたことは、 オーケストラは巨大な楽器ではなくて、どこまでも人と人の集まりであり、音楽性の象徴と見られる指揮者は、いわば音楽上のマネージャーの仕事が 大部分だと言うことであった。思い上がった気持ちでは1日も続かない。苦労も多いが、努力を積み重ねて行くうちに、 思いがけず自分の夢見ている音が出てくる日が必ずある。指揮者の喜びも苦しみも、すべて練習の中にあるとは言うものの、 苦労の上に咲いたこの花を本番のステージの上で最も美しく咲かせることも、全員に対する務めであると思う。
   = 小泉 良(昭和34年・J6,Fl,指揮)

   = 武貞 延也(昭和37年・J-10,Vn.)

昭和33年(1958)4月、暗黒の受験生活から解放されて、オーケストラの内容も分からぬままに入部した。とにかく、 「弦楽器のメンバーが足りない」からとマネージャーの橋本昌武氏からヴァイオリンをあてがわれ、18歳にしてレッスンを受けることに相成ったが、 とにかく、先ずAの音を合わすのに苦労をした。 入部した当時の練習場は神戸・元町のヤマハ楽器の会議場だったが、そこを追い出され、 昭和35年4月から赤塚山の教育学部(現在の発達学部)に移動した。快く音楽室を使わせて下さった当時の音楽科の教授連に感謝!。 その代償として、オケも教育学部の卒演に協力しました。

この年に行われた【第8回定期演奏会】のメインとして、指揮者の小泉 良氏(昭和34年・J6,Fl,指揮)はモーツアルトの 交響曲をお望みだったようだが、金管の出番が少ないと、すったもんだの末、[ベートーヴェン=交響曲・第3番「英雄」]に決定した。 が、私にはとても手におえず、この曲の時は舞台の袖で聞いていた。当時は弦の人材不足で指揮者は色々苦労されたと思う。

昭和34年(1959)の【第9回定期演奏会】と昭和35年(1960) の【第10回定期演奏会】の指揮をされた長谷川昌治氏 (昭和36年・E9,Vn,指揮)には、総合練習の前の数時間を使って、弦の初心者の練習をして頂いた。神戸女学院や武庫川女子大から応援に来て頂いた 方々は、いわゆるトラとは違って、普段の練習はもとより、合宿にも積極的に参加して下さった。下手なりに真剣に取り組んでいる我々の姿勢が彼女達の 同情心をかち得たのかも‥‥‥。部員と彼女達との間でロマンスが盛んになったのも、我々の時代からであろう。 翌年、現在プロの指揮者として活躍している、中島良能氏(昭和38年・B-11,Vc,指揮)が入部してきた。氏は弦楽器はもとより、 トランペットもこなすマルチタレントだった。また、今日の『響友会』が芽生えたのも、氏の力に負う所大だったと思う。
   〔別項で、中島氏から頂いた文章を掲載してあります=千葉〕

昭和36年(1961)、4年生で部長(現在の団長)になったが、世の中は、「安保騒動」でゆれていた。安保デモで東大の樺 美智子さんが 亡くなられた時には、大学新聞で文化部の政治に対する無関心を痛烈に批判されて戸惑ったが、考えれば批判されるほどまでオケも大きくなった証しと、 自分自身を慰めたものである。新制の10年目で入学。日本経済の高度成長期に卒業。今にして思えば、良き時代であった。

「安保騒動」=日米安全保障条約改定反対の闘争。1959〜60年に全国的規模で展開された近代日本史上最大の大衆運動。 とりわけ1960年の5〜6月は連日数万人がデモ行進し、国会を包囲したが、結局条約は改定された。1970年にも条約の延長をめぐって 反対運動が行われた。

* 時の流れは容赦なく、私達を卒業へと追いやってしまう。オケを卒業するためには、幸いなことに試験も卒論も無い。 しかし世の常として、こんな時には必ず成績をつけられるものであるから、私は自己評価で「優」を与えてもよさそうだ。お客さん待遇に甘えて、 楽譜書きや切符売りなど縁の下の力持ち的な仕事をせずに終わったのがマイナスに数えられる点であるが、これも、やる気はあったのである。 何よりも大切なことは「私がいなければオケが出来ないんだ」と言う張り切った新鮮な気持ちを持ち続けたことで、 この気持ちは誰にも負けないと思っている。『そんなのが「優」なら、皆「優」だわ』と言う声が聞こえて来るが、それは結構。皆がオケを愛し、 オケを楽しむ雰囲気がみなぎっているからこそ、我がオケは素晴らしいのである。
   =松山(白滝)和子(昭和35年・神戸外大,Vn)

* 第10回定演が終わった頃、朝日新聞の阪神版に我々のオーケストラのことが書かれていた。演奏会の成功を祝すると共に、 学生オーケストラとしての苦悩を抱えながら、ここまで到達したことを褒めてくれ、そして、地元の財界などの協力もあっても良かろうとも書かれていた。 我々学生にとってどうにもならない相手が「お金」である。昨年OBの間を駆け巡って金100,000円也のオーボエを手に入れた。よう鳴る!。よう鳴る!。 今まで、先祖伝来の楽器を、満身創痍のまま、ご奉公願っていた。OBの暖かい手と我々の足の結晶なのである。
   = 尾上正紀マネージャー(昭和38年・J-11,Hr)

   =中島 良能(昭和38年・B-11,Vc,指揮)

昭和36年(1961)の【第11回定期演奏会】は私が正指揮者として初めての定期演奏会だった。ただ私は曲目の決定に関与した 記憶がなかった。もし関与していれば[ベートーヴェン=交響曲・第7番]に賛成したかどうか分からない。ベートーヴェンは当時の世情・心情に合った ものではあるが、それは普通に1、2、3、4と分かりやすく始まる場合で、1楽章が6/8拍子というのは私を含めて皆がちゃんとついていけるかな という違和感があった。一方協奏曲は[グリーグ=ピアノ協奏曲]で、こういう曲が当時の典型的な学生オケの曲だった。

ソリストは内田直也君で彼は私の芦屋高校時代の友人なので、曲を含めて私が推薦したのだと思う。1楽章の冒頭は1小節4拍を ティンパニーだけが叩き、2小節目の頭でピアノとオケがジャンと入ってくるのだが、内田君は本番で2拍早くジャンと入ってしまいやり直した。 そのとき内田君が客席に向かってピョコンと頭を下げてからやり直したのだが、それが良かったなどと当時いわれた記憶がある。彼はその時、 京大工学部(電子)の3年であったが、ピアニストとしても、既に日本音楽コンクールの学生部門で関西1位(全国2位)に入っていた。 彼が芸大に行かなかったのは、勉強の方がピアノよりもっと良くできたという単純な理由でしかない。近況を尋ねると、工学博士で古河電工の 光技術研究所長を定年退職後、同社顧問として学界・後身の面倒を見ているとの事だった。

記録によればこの他に、八島薫君(昭和38年・T11,Fg)の指揮した[ビゼー=「アルルの女」組曲]と私の編曲した[商神] も入っているが思い出せない。

当時、定期以外の演奏会も多く、地方公演や神戸大学の行事としての演奏会、教育学部の卒演伴奏など年数回あり結構忙しかったが、 やはり定期となると格別の感があった。選曲はどういう仕組みで行われたかは覚えていないが、【第12回定期演奏会】には最上級生でもあった 私の意志が多く取り入れてもらえたように記憶する。当時の定番はベートーヴェンとチャイコフスキーだったが、私はどうしてもモーツァルトがやりたくて [交響曲・第35番「ハフナー」]を入れることを認めてもらった。当時、団員の増加からどこでも曲の大型化が進み、ロマン派全盛になってきて いたが、私には矢張り古典が原点という考えがあった。但し、大型の曲も必要なので、最後に[チャイコフスキー=イタリア奇想曲]を入れて、 4曲とした。今から思っても良い定期演奏会だったような気がする。協奏曲は独奏者に「誰をするか」という事で、 神戸女学院ヴァイオリン科の古武滋野教授が候補に上がり早速お願いに行ったが、娘さんの節子さん(当時神戸女学院・ヴァイオリン科2年)では どうかと言われ[サン・サーンス=ヴァイオリン協奏曲・第3番]を弾いてもらった。当時、神戸女学院からはヴァイオリンパートの団友として 何人かの専門生に参加して頂いていたが、異口同音に「節子さんなら素晴らしい」ということで、プログラムには同級生で団友の原田美加さんが 紹介文を書いてくれたのが残っている。

   =松永 明(昭和40年・J-13,CB,指揮)

【第13回定期演奏会】では「親しみやすくて喜ばれる曲目で神大オケをアピール」すべく[ガーシュイン=ラプソディ・イン・ブルー] と言う、ジャズっぽくて珍しい難曲を、歴史上初めて定期演奏会に取り上げました。この曲が演奏出来たのには、3つの偶然がありました。

その(1)は、ピアニスト・原 久美子さんの存在でした。以前から神戸高校にガーシュインを弾く名手がいると聞いていましたが、 そのご当人が文学部に在籍されていることを知りました(昭和42年・L15,Vn)。この曲のピアノ・パートには、右手が3拍子・左手が2拍子で 同時進行する個所があります。ここは、オーケストラもピアノも指揮者も大変です。打ち合わせで、原さんのご自宅に行き、ピアノの蓋を開けた時、 私は息を飲みました。何と鍵盤がすべて血だらけなのです。よく見ると彼女の指にはテープが一杯巻かれていました。18才のこの根性が、 本番でフィナーレを見事に飾ってくれました。

その(2)は、この曲には、クラリネットのグリッサンドを使った『つかみ』の有名な出だしがあります。これをこなすには、 余程のクラリネットの名手が必要になります。それが我がオーケストラにいたのですね。工学部の4回生で、モーツァルトのクラリネット協奏曲を 完璧に共演してくれた伊藤 肇(昭和39年・T12,Cl)さんです。男前でした。

そして(3)の偶然は、当時のメンバーには、やたら金管や・木管の吹きたがり屋、出たがり屋が多くて、室内楽のような静かな演目では 失業者が増えてしまう‥‥そういう失業救済、ストレス解消という組織運営上のニーズが押し寄せてきていたのです。かくして、 神大オーケストラ史上稀な曲目の演奏が実現したのです。

この定演の後、オケはふたたび古典音楽、純音楽性追求の流れに回帰し、プロのトレーナーの導入など質をさらに高める路線へと 変革していきました。

イングリシュホルンで吹かれる主題は、当時大阪音大生であり、現在テレマン・アンサンブルを主宰されている延原武春氏でした。

   = 大軒 護(昭和41年・J-14,Hr,指揮)

私は昭和37年(1962)の入学で、1・2年生の時はホルンを吹いていましたが、2年の最後になって急遽、 指揮をやれといわれ、それ以降、ホルンは片手間になってしまいました。

私が指揮を始めたのは、正確には昭和39年の1月からで、最初の棒ふりは、教育学部の卒演の伴奏でその年の3月、 曲は[(いくつかの)アリア、ガーシュイン=ラプソディー・イン・ブルー]でした。年末の【第14回定期演奏会】は [ベートーヴェン=交響曲・第5番「運命」、ヴィヴァルディ=ドッペル・コンチェルト、外山雄三=ディヴェルティメント]でした。 ヴィヴァルディはコンマスだった藤本恭子さん・鳥丸安雄君のソロでした。私がお二人に対して「2台が合えば、ビリビリ響くはずだ。 もっと大きく弾け」と怒鳴ったそうです。初めて取り上げた日本人の作曲家・外山雄三氏の曲は民謡が主題のもので、少し戸惑いはありましたが、 それ程難しいものではなく、演奏会当日には、朝比奈さんと外山さんが来場され、演奏後、外山さんがステージに上がってこられて、 コンマスの藤井恭子さんと握手されました。

また、その頃、部員の間から「プロの指揮者を呼んでみたい」という声が強くなってきました。 音楽的に高いものを求めたいという思いは昔から不変だったと思います。勝部治樹君の高校時代の友人(朝比奈千足氏)の紹介で、 プロの指揮者にきてもらえる機会が出来ました。泉 庄右衛門という方で、当時大阪フィルハーモニーの補助指揮者でした。 昔は天王寺商業のブラスバンドでクラリネットを吹いておられた方で、その年の4・5月頃から練習をみてもらいました。

泉 庄右衛門氏には熱心に指導して頂き、演奏旅行などにもご同行頂きましたが、氏の指揮による演奏会はこの定演が最後でした。 正確な記憶はありませんが、部員の間に色々な考え方があって、これ以上続けていくのに対し消極的な意見が多かったからだと思います。 特に、泉氏と正面から衝突したことはなかったのですが、プロとの付き合い方は難しいという印象がなんとなく残っています。 いずれにしても僕自身は、学生指揮者という立場で、まな板の上のコイ状態で、大勢に従いました。昭和40年 (1965)の【第15回定期演奏会】では [ベートーヴェン=交響曲・第3番「英雄」]を指揮しました。私は学生生活のエネルギーの8・9割をオーケストラに費やした様に思います。

   = 勝部 治樹(昭和42年・B-15, Fl)

昭和38年(1963)、1年間の浪人生活を終え、無事に神戸大学に入学した時には、既に交響楽団に入る事を決めていた。 神戸高校でオーケストラをやっていて、ストレートで入学した友人達が活躍していたからである。この頃には、高校時代に何らかの形で楽器に親しみ、 中にはプロのレッスンを受ける者もいたので、大学入学後、新たに楽器に取り組む者は少数派になり、池田首相が言った「もはや戦後ではない」 時代に音楽環境も入りつつあった。

とは言うものの、弦楽器の人数は不足がちで、神戸女学院・武庫川女子大・大阪教育大などから継続的に参加して頂いていた。 さらに画期的なことは、従来学生だけでやっていた練習を、朝比奈 隆氏の子息で友人でもあった朝比奈千足氏の紹介で、 大フイルの補助指揮者・泉 庄右衛門氏と弦楽器インストラクター・阿部氏の指導を受けた事である。当時来日したベルリン・フィルや ロンドンフィルの生の音に接して、「皆でただ仲良く音を出して楽しんでいるだけでは、真の音楽には近づけない」との 思いが強かっただけに、受け入れて貰えたことが、非常に嬉しかった。

* 昭和38年の春、バスに揺られて神大へ。素晴らしい自然に囲まれた、こんな所で音楽ができるなんて幸せだなと思った。 [未完成]の練習をやり始めた途端、学生諸君の真剣な態度と求楽心に燃えた目に驚いた。が、アマチュア精神の溢れる凄いファイトを抑えるのには 一苦労だった。毎日音楽・音楽に追い回されていた自分を顧みて、少しでもこんな精神状態に浸れたら良かったのにと、いささか残念な思いでした。 [未完成]の出来は素晴らしかった。一生涯忘れる事の出来ない、私の音楽生活の貴重な1ページであった。
   = 泉 庄右衛門 氏の回想

*神戸大学に統合される昭和39年(1964)以前の神戸医科大学と神戸高等工業専門学校の音楽活動。
神戸医科大学オーケストラは、昭和32年、それまでにあったデキシーバンドを基礎に、10数人の集まりから始まった。 その後、開業医・医大事務職員・看護婦・患者・学生などで40人弱に成長し、年に1度、秋のリサイタルは欠かさず行って来た。 神戸大学との合併話が出た時、問題になったのは、先輩が育てたこの週に1度の楽しい集まりが消えて行くことでした。結論として、 両立の道を選びました。初めて神大オケの練習に出向いた時、本当に羨ましいことを沢山見せて頂きました。中でもメンバーの集まりが 格段に違う事でした。私は練習の前日になると、メンバーの所に出席の懇願に行く必要があります。全部合わせても320人の学生数ですから、 仕方の無い事です。が、全国の医大でも、京都府立医大以外にない、この組織を誇りに思っています。

* 現在の神戸大学・工学部は、新制神戸大学に統合される前には神戸高等工業専門学校として存在していました。 その神戸工専には、昭和の初め頃からブラスバンド部があり、日本で初めてブラスバンドで[ボレロ]を演奏したとのことです。
   =[神戸大学交響楽団・50周年記念誌]後記より

   = 橋本 宏夫(昭和45年・J-18,Fg)

昭和41年(1966)4月。六甲台正面の石段を登った所で、管楽器を持った数人が部員勧誘中。 そこで初めてファゴットを間近で目にした!。「楽器経験が無くても大丈夫。例えばファゴットに経験のある者など居ない」。 その言葉につられて入部したことは間違いありません。

楽器運び・楽譜写し・リード作り・喫茶店通い、何をするのも珍しく、楽しい日々が始まりました。楽器運びの要領は、 バスの最後部座席の足元に譜面台の束を置き、その上にコントラバスを交互に並べて重ね、ティンパニーは2つを重ねて、 中に楽譜等の小物を入れて運び、結構楽しいものでした。当時はヘッケル式のファゴットが2本。 昔はコンセルバトワール式のバズーンがあったそうですが、現物を見たことはありません。 当時、私に渡された楽器は、そこら中から息の漏れるスゴイもので、肺活量がいくらあっても足りないと不安に思っていましたが、 大フイルの宇治原さんに見て貰って、原因はいたる所からの息漏れと分かり、 ひとまず安心しました。その後、大学で購入してくれたのが、シュライバーのファゴット・クランポンのオーボエ・モーレンハウエルの フルート・アレキサンダーのホルンでした。バス代20円、タクシー100円の時代に、ファゴット・ホルンがともに350,000円であったとか

その頃の年中行事の主なるものは、5月の大学祭・6月の新人歓迎合宿・7月の夏季合宿・12月の定期演奏会・3月の 教育学部卒演であった。

【第16回定期演奏会】の会場は、第8回以来恒例の神戸・国際会館で[リスト= ピアノ協奏曲第1番、 シューマン= 交響曲「ライン」]。シューマンの第2楽章ではファゴットの休みは3小節だけで、とにかく休みが少ない。 翌42年の【第17回定期演奏会】は、[ベートーヴェン=ピアノ協奏曲「皇帝」、フランク=交響曲ニ短調]など、 43年には、教養学部が御影から鶴甲に移転のため、定演が間近に迫る中、練習場探しに苦労し、学生会館・御影公会堂などを転々とした。

【第18回定期演奏会】は、[モーツァルト=交響曲「リンツ」、シューマン=交響曲・第4番]など。 次いで44年の8月には、《サマーコンサート》の先駆けとなるモーツァルト・ベートーヴェン・ウエーバー・グリークなどの 【ピアノ協奏曲の夕べ】を西宮市民会館で行い、【第19回定期演奏会】は[ブラームス=交響曲・第1番、シベリウス=バイオリン協奏曲]を 演奏した。シベリウスでは、指揮者と独奏者が姉弟の共演であった。

【第19回定期演奏会】の行われた昭和44年(1969)3月の入学試験は、全国を吹き荒れた学園紛争のため行われず、 六甲台を始めとする大学が封鎖され、学生会館での練習も、多少騒然とした雰囲気であった。鶴甲へ移転間もない教育学部は比較的平穏で、 何とか練習出来る状態だったが、帰途にヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持った連中に追いかけられて、鶴甲団地内を逃げ回った者も多数あった。 学園紛争は8月中旬に、封鎖解除の学生大会が、宅地造成中の高倉山で行われるまで続き、一部の部員から「この時期に、 漫然と慣例通りの定演をやるのか」との声もあったが、「年に1回の定演はオーケストラ活動の中心であり、 絶対やるべし」と意見集約が出来、無事に例年通り国際会館で行った。

   = 小田川 泰幸(昭和48年・B-21, Tr)

【第19回定期演奏会】は私が1年生の時で最も印象に残っている演奏会です。指揮は学生だけで行い、 [シベリウス=バイオリン協奏曲]の独奏者は、指揮した木原俊哉氏のお姉さまで、京響団員の木原啓子さんでした。練習場は教育学部の音楽棟で行い、 練習日はOBも参加できるように、火、木、日曜日でした。本番の会場は神戸国際会館大ホールでした。

この年は学園紛争で大学が封鎖されており、入学式の代わりに、大倉山の市立体育館の外で説明会がありました。 体育館の周りが入学生と全学連の活動家のアジ演説で騒然となっている中、玄関の屋上に学長が立って、入学生に対し何か挨拶をしていた のを覚えています。私と高校同窓の小谷君はオケの勧誘をしていないか辺りを探しました。そこで見つけたのかどうかは忘れましたが、 とにかく秋まで授業がなかったので、私たち2人は1番乗りでオケに入学して、秋まではオケのみの生活にどっぷりとつかることになったのです。 定演で私は[ブラームス=交響曲・第2番]のトランペットを吹きましたが、よく練習したので、ほとんど暗譜で吹いたのを覚えています。

昭和45年(1970)の【第20回定期演奏会】の時から、プロ作曲家を目指しておられた奥田伸悟先輩を音楽監督に迎えること になりました。[ショスタコービッチ・第5番]は、曲目決定の時点ではとても演奏出来る曲ではないとみんな思っていました。 トランペット・パートは上級生が皆卒業してしまい、2年生の私と1年生の羽馬君の2人だけ。本番はOBとエキストラ2人を呼んで、 3人のパートを5人で吹きました。当時私は、実音Aが高音の限界でしたが、ショスタコービッチはCisまで出てきますし、ハイトーンでのffが 多い曲なので、まずハイトーンを出せるようにすることが先決でした。この年に随分練習して鍛えたおかげで、現在に至るまでハイトーンのffが得意 になりました。この演奏会では3曲とも1番トランペットを吹きましたが、今から考えると、リハーサルと本番で、 よくスタミナがあったなと我ながら感心します。

この年は授業は再開していましたが、方々で度々封鎖が起こりましたので、練習場も学生会館や農学部を転々としました。 リヤカーにティンパニーを乗せて、坂道を運んだことを思い出します。

演奏会は緊張感と迫力のみなぎる快演で、大成功を収めました。会場は西宮市民会館でしたが、前評判も高く超満員でした。 翌日授業の始まる前に、前の席にいた私の知らない2人の学生が話しをしており「昨日の演奏会メチャクチャ良かったで!」と言うのを聞き、 嬉しくなって思わず「僕それに出とってん!」と言ってしまいました。

   = 八木 秀夫(昭和49年・E-22 , Vc)

昭和45年(1970)に入学した頃には、学生運動は下火になりつつありました。それでも、アジ演説とビラが溢れ、 時には授業中に武装学生が乱入したり、バリケードで入館が困難な事もありました。

私は入学当初からクラブ活動はオーケストラと決めていましたが、勧誘のビラさえ無く、やっとの思いで練習場所を探し、 入団出来ました。オーケストラは紳士か学者風の人が多い団体と思っていましたが、案に相違して、入団当日から三宮まで飲みに行き、 少々当惑もしましたが、何時の間にか率先垂範することになりました。

楽団の活動は、地方の小学校で演奏する春の「ドサ回り」からスタートし、6月頃からは、冬の定期演奏会の練習にかかります。 この年の【第20回定期演奏会】は、OBでプロの指揮者として活躍しておられる奥田伸悟氏(昭和43年・B16,CB,指揮)にお願いして、大曲の [ショスタコーヴィッチ=交響曲・第5番]に挑戦することになりました。この曲は、まだアマチュアが演奏したことは無く、 炸裂する音の連続に興奮しながら練習していたのは私ばかりではなかったと思います。勿論、西宮市民会館での定期演奏会は大成功でした。

その余勢を駆って昭和47年(1972)の【第22回定期演奏会】には、[ベートーヴェン=交響曲・第9番]に挑戦すると言う、 神戸大学交響楽団の歴史にない「恐ろしい計画」が浮上しました。当時、渉外マネージャーであった私はその実行部隊の中心にいて、 まさにハラハラ・ドキドキの連続でした。

独唱者には、指揮の奥田氏から評論家の柴田 仁氏のご紹介で、永井和子・羽場喜代子・田原祥一郎・小林亮三の各氏にお願い できました。しかし、コーラス200人以上を集める事はなかなか大変でした。神戸地区の大学コーラスは既に冬の計画が決まっていたので 調整に手間取り、神戸大グリークラブ・神戸外大・神戸女子薬大・神戸海星女子大・松蔭女子大・神戸山手女子大の150人に、 アイビーコーラス・神戸男声合唱団のご協力を得て、何とか200名に達しました。

そして、この寄せ集めの合唱団の指導者として、桜井武雄氏にお願いしました。 練習場所や合唱団の参加率が低いなどの問題点がありましたが、桜井氏の音楽に対する真摯な姿勢には感動させられました。 練習場や国際会館との調整など種々の問題がありましたが、何にもまして、オーケストラの演奏は、技術的に難しいものでした。 が結果は聴衆から「大変感動的だった」と言われ、演奏者全体の熱い思いが、国際会館超満員の聴衆の皆さんに伝わった 非常に素晴らしい演奏会になりました。

* [第九]をやること。それは正直言って、マネージや演奏技術上の問題など、我々にとって大きな冒険でした。 それでも、あえて試みようと結論出来たのは、[第九]がそれ程までに偉大な作品であったからなのではないでしょうか。
   = プログラムより、八木秀夫

* 戦後、私が本格的な[第九]を初めて聴いたのは昭和29年(1954)年にカラャン=N響によるもので、 その後昭和44年(1969)の 大フィル、昭和45年(1970)のカラヤン=ベルリン・フイル、 1975年ライプチッヒ・ゲバントハウスオーストラ、1976年のチェコ・フイルと続きました。従って、神大オケが1972年に [第九]を演奏したのは大変な出来事でした。
   =千葉

*いまや12月の日本の音楽界の恒例行事(最初は年末の餅代稼ぎが目的)ともなっている [ベートーヴェン=交響曲・第9番「合唱付き」]の日本初演については、ある程度知られていますが、その実情を詳しく調べて記事にされた、 朝日新聞東京本社の横田庄一郎氏の文章(東京版)から借用して、要約を紹介したいと思います。

 【[ベートーヴェン=交響曲・第9番「合唱付き」]の日本初演は大正7年(1918)6月1日。当時、第一次世界大戦中に中国の青島で捕虜と なったドイツ人達を収容していた徳島県鳴門市の板東俘虜収容所であった。約千人のドイツ人捕虜達の中にそれぞれ45人で編成された 徳島オーケストラとエンゲル・オーケストラがあった。軍楽隊長ヘルマン・ハンゼンが指揮する徳島オーケストラの第2回目のコンサートで「第九」が 演奏された。4人の独唱者・80人の合唱団は、当然のことながら捕虜の男性ばかりだった。演奏会は捕虜達だけで、夕方に始まった。 最後は全員の大合唱となり、中には泣き出す者もいたと伝えられている。「第九」の演奏はこの時1回限りで、テレビや小説で流布された様子とは違い、 これ以外に演奏が行われたと言う記録は残っていない。同じ様に、九州・久留米の俘虜収容所でも約40人の編成でオーケストラ活動は盛んであり、 徳島より1カ月遅れの大正7年7月に「第九」を演奏したが、最終楽章は演奏されなかった。全楽章が演奏されたのは、戦争が終わり、 帰国が迫る大正8年(1919)12月5日であった。収容所で使った(造った)ティンパニーは、水がめに牛の皮を張ったもので、 その後九州帝国大学がホルンと共に購入した。明治42年(1909)に設立された九州帝国大学フイルハーモニーは、大正13年(1924)1月26日、 40名のオーケストラと180名の合唱で「第九」の第4楽章を演奏した。歌詞はシラーのものではなく、文部省撰・奉祝歌であった。 同年11月には東京音楽学校奏楽堂でドイツ人の指揮で演奏されたが、すべて日本人の手による「第九」は、昭和5年(1930)東京・日本青年館で開かれた、 近衛秀麿指揮の新交響楽団によってであった。
   = 横田庄一郎氏・平成12年12月の朝日新聞より】

48年(1973)の【第23回定期演奏会】は村上憲司氏と初めてプロ・デビューされた岡田 司氏で[ブラームス=交響曲・第1番、 ハイドン=交響曲「ロンドン」、チャイコフスキー=スラブ行進曲]を演奏した。

   = 藤本 真一(昭和50年・E-23,Tbn)

49年(1974)の【第24回定期演奏会】のプログラムは[ベートーヴェン=ピアノ協奏曲・第1番、 ベルリオーズ=ラコッツイ行進曲、ベルリオーズ=幻想交響曲]で、ピアノ独奏は宮本玲さん、指揮は学生の岡田 司君と今井方丈君であった。 この年の演奏会は、メインの[幻想交響曲]を振った指揮者・岡田 司君を抜きには語れない。当時、経営学部3回生であった彼は、私の一年下。 入部当時はフルートであったが、弦楽器の素養を身に付けるために、その後ビオラに転向していた。 前年に[べートーヴェン=交響曲・第5番「運命」]や[ハイドン=交響曲「ロンドン」]を振って神大オケで指揮者デビューを果たしていたが、 神大オケの『マエストロ』としての地位を確立したのがこの年である。

夏の演奏会では[ドヴォルザーク=交響曲・第8番]を指揮したが、基本練習に重きを置き、弦楽器を中心に、 かつて無いほどパート練習に時間を割いた厳しい指導の下で名演奏が生まれた。憂いに満ちた、優しくそして美しい第3楽章などは素晴らしく、 いまでも当時の録音を聴くと感動が駆け巡るのは私だけではあるまい。また奇怪な幻夢の世界をダイナミックに描いた[幻想交響曲]も、 彼の指揮のおかげで、当時の学生オケとしてはかなりの名演奏であった(と思う)。マエストロは我々の力を実力以上に引き出し、 そして上手く音楽に乗せる、学生の域を越えた学生指揮者であった。

その後、本格的に指揮の勉強をした後、プロ指揮者となった彼は、各地のプロ・アマのオーケストラを指揮するとともに、 大阪センチュリー交響楽団の創設にも立会い、小澤征爾主宰の斎藤記念オーケストラの松本公演で合唱指揮を務めるなど、幅広く活躍中と聞く。 最近の響友会の催しでは、OB・OG連の俄かオーケストラの指揮も務めてくれている。有り難いことである。私と同世代の彼であるが、 仕事の面では峠を越えたリストラ間近のサラリーマンと違って、指揮者としては更なる円熟の境地に登りつめてゆく途上にあり、 まだまだ先は長い。今後、ますますの活躍を祈らずにはいられない。

私の担当はトロンボーンである。ご存知のとおり、オーケストラでは出番が多い方ではない。前年の【第23回定期演奏会】は [ブラームス=交響曲・第1番]。夏の演奏会は、[べートーヴェン=交響曲・第5番「運命」]。その1年前の【第22回定期演奏会】は、 同じく[ベートーヴェン=交響曲・第9番「合唱付」]で、いずれも出番は最終楽章のみである。とは言っても、それぞれ極めて重要な役回りを 与えてもらっている(と思っている)。特に[ブラームス=交響曲・第4番]の第4楽章のコラールが出色で、トロンボーン吹きは満を持して登場し、 あの数小節ではあるが心地よいハーモニーを創り上げた時には、自ら身震いすらしてしまう。

この年のメインの[幻想交響曲]はトロンボーンにも数多く活躍の場が与えられている。ダイナミックなブラスの響きは吹き手にとって わくわくするが、それでも第4楽章からの登場である。やはり暇は暇である。最近は、舞台上ではトロンボーンのスタンド(正確な名称は知らない)が普及し、 出番までは手ぶらで椅子に座っているから居眠りもOK(?)。当時は手で楽器を支えながら座っているから、ウトウトすると大変なことになるので、 そこは3人が阿吽の呼吸で、お互いの居眠りを横目で監視することになる。そういう意味では、[幻想交響曲]はその都度、目先が変わる面白い曲であり、 ステージの最後段で出番を待っている間も、緊張感を持って楽しむことができる数少ない曲のひとつである。「幻想」の第3楽章には、ハラハラ、 どきどき、緊張感が極限に達する場面が2箇所ある。冒頭のオーボエとイングリッシュホルンの掛け合い、そして最後のイングリッシュホルンの 独奏部分である。あの静寂の中での演奏は、同じ舞台に上がっている我々も息を潜め、胸が張り裂けそうな気持ちで見守っている。演奏会のその日、 何とか無事に第3楽章の終わり近くまでこぎつけ、最後のイングリッシュホルンの独奏(エキストラをお願いしていた)も半ばまできたところで、 事件は起きた。終わりから10小節目、マエストロ・岡田の指揮棒がイングリッシュホルンに向かって振り下ろされたその瞬間、聞こえるべき音が出て こなかったのである。ティンパニーの遠雷の音がゴロゴロと鳴り響いている中で静寂が流れた。8分の6拍子の長い1小節をマエストロの指揮棒が 空を切った。丁度1小節を振り終わった次の瞬間、指示された1小節前のイングリッシュホルンの音が流れ、演奏は継続された。皆はホット胸を撫で 下ろしたのであるが、空白の1小節を振ったマエストロは勿論のこと、動じずに1小節余分に叩き続けたティンパニーも立派である。 その後何も無かったかのように演奏は続けられた。2枚リードの楽器は難しい。その日の「幻想」は、《ベルリオーズが書いた小節数より 1小節多い「幻想」》となった。

「幻想」といえば、第5楽章の前半に登場する「鐘」が有名であるが、さて、それを、どうやって調達するかが問題となった。 誰かが、京大オケが以前「幻想」をやった時に自前で鐘を製作したという話を持ち出した。京大冶金工学の技術の粋を集めた物に違いない(?)と皆が 思ったかどうかは別として、その一物は神大オケにやって来た。それは直径20cm、厚さ2〜3mm、長さ5cmほどのドス黒い鉄管で、断面の一方を20cm 四方の鉄板で溶接して塞いだ2本組であった。これを吊るして、バチで叩くのである。音程は、確か「C」と「G」であったように思う。 「NHK・のど自慢」に出てくる鐘の音色に近いものを期待していた私であったが、叩いてみて、そのイメージとは程遠い、まさに鉄製の「土管」の 低い音がしたのであった。しかしながら、よくよく耳を澄まして聞いてみると、指定された音程の音が微かにではあるが確かに鳴っていた。 この鐘の場合、楽譜に指定された音の響きをかき消すほどに他の音の響きが大きかったということなのであろう。考えてみれば、お寺の鐘でも 色々な音程の音が混じり合って、えも言われぬ音がする。現在、演奏会で一般的に使われる鐘の音色は、ベルリオーズが初演した時よりも澄んだ 高い音であるというが、そういう意味ではあの時の鐘こそ、まさしく「死者への弔いの鐘」に相応しい音色(?)であったのかもしれない。 今でもハッキリと記憶のある、忘れられない音である。

我らのコンサート・マスターは同じ年次の岩田ちゑ里さんである。3回生の時からコンマスに抜擢され、 [ブラームス=交響曲・第1番]ではあの第2楽章のソロを、伸びのある音色で、美しく、そしてゆったりと見事に弾きこなした。 神戸外大生の彼女は、小柄でもないのに7/8の楽器(それでも大きな音が出るのである)を携え、当時は高羽の交差点近くにあった外大から、 あの坂を上って、学生会館まで練習に来ていた。合宿などで一旦アルコールが入ると記憶が無くなるくらい酔っぱらって、楽しくよく喋った。 そして、ファースト・バイオリンのパートは「深夜のパート練習」に付き合わされたものだ。コンマス然としたところが無く、 柔和な性格で普段はどちらかと言えばおとなしく、そして落ち着きのある言動から、まさしくお母さんのイメージで、演奏技術は勿論のこと、 その人柄からも信頼度は抜群であった。卒業後は家庭を持ちながらも、バイオリンを弾く仕事で音楽に係り続けていた、 そんな彼女が1998年の夏に急逝した。急性くも膜下出血であった。新居を建て、奈良から京都に移り住んだ矢先のことであった。 あまりにも突然の逝去。コンマスとして演奏を引っ張りながらも、それでいて陰ながら一人ひとりをそっと見守っている、 そんな彼女の存在は大きかった。今、酒宴の席で彼女と昔話に花を咲かせることが出来るなら、コンマスのあの席から、 我々一人ひとりの演奏をどう思って見ていたのか、彼女の口から聞いてみたいものである。そして、響友会の俄かオケのやはりコンマスの一人として、 有力メンバーになっていたに違いない。齢50歳から51歳を数える我々の年次のただ一人の物故者である。岩田さん、安らかに。

この年の名演奏が生まれたのには、先にも述べたマエストロ岡田とコンマス岩田さんという2人の存在が極めて大きいが、 他にも忘れてはならない人達がいる。管楽器群における工学部の5回生部員の活躍である。工学部は文系学部と違って、 専門課程に入ると実験やレポートの提出など極めて多忙になり、試験も厳しい。従って、卒業までの年数も四年ではなく五年という学生が文系とは 比較にならない程多い。神大オケに強い愛着があってのことか、あるいは別の要因なのか、私には知る由もないが、この年の我が神大オケには管楽器に 数名もの実力派5回生プレーヤーが残ってくれることになったのである。「幻想」は、個々の管楽器の音色・個性を尊重する曲で、管楽器奏者に とっては極めて魅力的な曲であると思うが、そういう意味ではこの先輩達には思う存分活躍する場が与えられることとなった。 『なに?今度の定演は「幻想」?。そうか、残った甲斐があった!』と喜んだとある先輩の言葉を覚えている。あえて氏名は伏せさせて頂くが、 心から神大オケを愛するこれら諸先輩の存在もまた大きかったのである。

その後の神大オケの演奏会記録を見てみると、89年と99年の2度にわたって「幻想」を取り上げている。 たまたま99年の演奏を聞く機会を得たが、良くまとまった好演奏であった。ただ、ステージの後方に、 美しく、立派な「鐘」が堂々と置かれていたのを羨ましく思ったのは、私だけではあるまい。我々の25年前の記憶が蘇り、 その後しばらくの間興奮覚めやらなかったことを覚えている。

   岩畔 昌仁(昭和50年・T-22,Cl)

[ブラームス=交響曲・第1番]がメインの【第23回定期演奏会】は私にとって失敗・幸福感・切なさの交錯した特別な演奏会でした。 本番2週間ほど前、リードの調整中に誤って左手中指の腹を深く切り込んでしまうという失敗をしでかし、何とか本番では吹ける状態になったものの、 不安を抱えながらのブラームス・トップのステージでした。そんな中で、通常と異なり、本番だけホルンを木管の後ろ横一列に配置したのです。 結果、普段は別の方向へ出される指揮者・村上君のホルンへのザッツが、私の方向へ出されることに気づいていませんでした。

1楽章中間部クラリネットの短いソロ。いつものように音楽の流れを確かめながら村上君のザッツを待ちます。あと5小節。 そろそろ準備。あと2小節。「え!。村上がこっちを見てる」。そう、1小節前にホルンへのザッツが送られ、私は条件反射的に吹き初めてしまいました。 すぐに気がつき、正しい場所から吹き直しできましたが、その後の一楽章後半は、ほとんど記憶に残っていません。皆さん、当然のことながら練習と 本番の楽器配置は決して変えてはいけません。

さあ、気を取り直して第2楽章です。ご存じのようにブラームスの第2楽章の華は美しいヴァイオリンのソロです。 ホルンやオーボエとのユニゾンが目立ちますが、110小節あたりに、ささやかにクラリネットと寄り添う下降音形があるのです。 フレーズ後半は少しテンポを弛め、溜めをつくりながら次のファゴットのフレーズに渡すといった案配なのですが、ここはコンミスと目と体で ザッツを出しながら合わせます。クラリネットとして際だって目立つところではありませんが、これが結構幸せな気分になれる個所なのです。 本番では驚くほど気持ちが合い、ゾクっとする感覚がありました。彼女も同じ感じを持ったのか、僅かな微笑みを返してきました(少なくとも私には そう見えました)。まさにアンサンブルの醍醐味です。第1楽章の失敗気分も吹っ飛び、第3楽章の冒頭のソロは絶好調(だったと思う)。 第4楽章は例によって再現部からは勢いで piu Allegro の終結へ、さらにアンコールの[ローエングリン・第3幕前奏曲]、 さらに、打ち上げへと一気呵成の神大オケ得意のパターンで終了しました。

私が在籍した第20回〜24回のメイン曲だけを見ても[ショスタコヴィッチ=第5番、チャイコフスキー=第5番、 ベートーヴェン=第9番、ブラームス=第1番、幻想交響曲]と、交響曲の大曲ばかりをやっています。

夏の演奏会は(当時はまだサマコンとは呼んでいなかった)、1年目は学生紛争の余波で無し、2年目は姫路で学校廻りをし [「アルルの女」「サウンド・オブ・ミュージック」]などのポピュラーな曲。3年目は出来たての明石市民会館のこけら落とし演奏会で [「フィンランディア」、「未完成」、「ガイーヌ」]。4年目は富山で富山大学とジョイントで曲は[「運命」]。 5年目は甲南大とのジョイントで[ドボルザーク=第8番]でした。個人的には5年間でこの最後の曲が最高の出来でした。

それに加え、この5年間は指揮者の影響を色濃く残した時期だったと思います。前半の【第20・21・22回】は、 奥田さんというアグレッシヴな指揮者の影響で非常にパワフルなオケになり、後半の【第23・24回】は私の同期の村上憲司君。 さらに、当時の学生としては極めて才能豊かな岡田 司君という指揮者により、より精緻なアンサンブルを目指す方向へ変わり始めた時期でした。 手前味噌ながら、先輩方が築いた基礎の上で神大オケが大きく発展する転機になった極めて重要な時期ではなかったかと思っています。

   = 戸嶋 潔(昭和53年・B-26,Tp)

私がオーケストラに在籍した昭和49年〜53年(1978)は現在の活動パターンの基礎が出来つつあった時期だったと思います。 年末の「定演」を除けば、夏などに決まった演奏会は開催されていなかったので《サマー・コンサート》と銘打ち、 7月にも演奏会を開くようになった。

記念すべき第1回となった《75年・サマー・コンサート》は、昭和50年(1975)[ウエーバー=「魔弾の射手」序曲、 ビゼー=カルメン組曲・抜粋、ベートーヴェン=交響曲・第8番]の曲目で、指揮は当時、経営学部4年生であった岡田 司氏であった。 演奏は好評で、特に、岡田氏指揮のベートーヴェンは、軽妙な曲の運びと響きの美しさで、ひときわ光っていた。 私は3年生の時に渉外マネージャーとなり、安形・(故)榊君との3人で裏方役を務め、翌年の《76年・サマー・コンサート》には、 [ニコライ=「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲。 ドヴォルザーク=チェロ協奏曲、ベートーヴェン=交響曲・第1番]を取り上げ、チェリストには当時新進気鋭であった藤原真理氏を迎え、 「定演」に劣らない内容の活動をした。また、行動力抜群の榊君のお陰で、同じ様な曲を持って兵庫県の但馬地区へ巡回コンサートも行った。

《77年・サマー・コンサート》は[ロッシーニ=「セヴィリアの理髪師」序曲、シベリウス=「カレリア」組曲、 メンデルスゾーン=交響曲・第3番]を内田・武田の2人の指揮者で行い、とても情熱的な好演でした。

元来、音楽の道を目指しつつも、止むを得ず二足のわらじを履くこととなった私の学生生活は目まぐるしいものでしたが、同時に、 夢溢れるものでもありました。講義への足は徐々に遠のき、広島交響楽団の指揮をしてこの世界へ船出してからは、音楽に専念する事となり、 卒業資格を得るのに8年の年月を要しました。しかし、その長いプロへの移行時代を楽しく支えて下さったのは、同級の友人達や多くの 先輩・後輩諸氏だったのです。その後、トレナーを兼ねた定期演奏会の指揮者として、神戸大学オーケストラに数年間招いて頂き、 修行時代の私を物心両面で援助して頂いたことは、今も懐かしく感謝の念とともに想い出されます。
   = 岡田 司(昭和51年・Vla,指揮)

* チェリストの藤原真理氏は、その時既に高名な方でしたが、気さくな暖かいお人柄で、部員の人気も高かった。 練習で、ベートーヴェンのチェロ・パートを一緒に弾いて頂いたことを、昨日の事のように鮮明に思い出します。藤原氏には、 【第28回定期演奏会】でもソロを弾いて頂きました。神大オケの4年間の思い出の中に、必ず岡田君の姿が含まれています。 彼のデビユーは昭和48年(1973)夏、富山大との合同演奏会での「運命」でした。その力強く、しなやかな指揮ぶりが我々の心をとらえ、 彼の指導の下で神大オケは着実に実力と音楽性を高めて行ったと思います。
   = 富浦 誠(昭和51年・P24,Tr)

なお、交響楽団顧問であった家本秀太郎教授のご退官に伴ない、新しい顧問として新庄 博経済学部教授に就任して頂いた。

* 家本教授のご挨拶= 神戸大学交響楽団を大学の中から見守り激励してきた私にとって、時代とともに進む楽団の編成や技術の 発展に感無量である。2・3年に一度は必ず出る献身的で音感の優れた指揮者。学生レヴェルを超えた奏者。楽団の精神面を把握した 団長・マネージャー。この人達の在学中の活動が、社会生活での大きな心の支えとなっていることを自ら知り、 これこそ理想の学生生活だったと悟るのである。

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