【神戸大学交響楽団の歩み・戦前の活動】

大正4年(1915)、神戸市・上筒井にあった神戸高等商業学校の学生会館で『ワグナー・ソサエティ』と 称する数人の学生が合奏を楽しんでいた。この『ワグナー・ソサエティ』こそ神戸大学最初の器楽合奏団であり、 今日の神戸大学オーケストラの歴史は、この時・ここから始まったのである。

大正4年は、前年に始まった第一次世界大戦の最中で日本中は戦争景気に湧き、繁栄を誇っていた。 中でも神戸は日本の玄関口として早くから外国文明に接して古い体制の明治期から脱却し、新しい活気に満ちた高い文化的レベルを持つ、 いわゆるハイカラ人種が多く生活する町であった。

が、日本中の音楽事情となると、まだ明るい時代ではなかった。当時東京に音楽学校が設けられ、 関西の一部の女学校には音楽部が置かれていたが西洋音楽はまだ一般の人達にとっては理解しがたいものであり、 音楽と言えば琴・尺八などの日本風のものが楽しまれているに過ぎなかった。何しろレコードが、やっと世間に普及し始めた頃のことで、 勿論シンフォニー・オーケストラと呼べるものはなく、西洋音楽は聴くことすら困難であり、そんな環境の中にあって、 ましてや、楽器を演奏するのには相当の勇気が必要であった。

* 明治36年(1903)大阪市で「第5回勧業博覧会」が行われ、陸軍の軍楽隊が時々演奏をした。 これが、私の最初に聞いたハーモニーを持った音楽で、大きな感動を受けた。家庭で聞くのは、父の謡曲・妹の琴。 家庭外では芝居のお囃子・文楽の浄瑠璃・はやり唄程度だった。小学校に初めてピアノが入ったが、先生は両手の 指一本づつでメロディを弾くのがやっとだった。私は祖母がくれたハーモニカで初めてハーモニーを楽しんだ。 当時、ヴァイオリンと言えば、どこかの令嬢と筝曲を合奏するのを楽しみに稽古した時代だった。活動小屋では、 映画の上映中に、いわゆるジンタ(楽隊)がクラリネット・コルネット・小太鼓・大太鼓の編成で「美しき天然」やマーチを演奏し、 エキゾティシズムをそそってくれた。中学(旧制)に入り、軍楽隊出身の先生が合唱を始め、後にピアノの手ほどきをして貰った。 大正2年北浜にあった帝国座で相愛学院の音楽会が開かれ、初めてヨーロッパの生の音楽(声楽・ヴァイオリン・ピアノ)に接した。 私が本格的な交響曲を聴いたのは大正8年(1919)上野の音楽学校・定期演奏会での「英雄」であった。
   = 山中直一氏(高商13回)談
(北浜=大阪市中央区にあり、江戸時代より商業地区として栄えた。日本の手形交換所発祥の地。 大阪証券取引所などがあり、東京の兜町と並ぶ証券街であった)

* 大阪・船場に生まれた私は15歳の頃、土蔵から母親の娘時代のヴァイオリン持ち出し、 おもちゃにしたのが、音楽との初めての触れ合いだった。女の子にはピアノを習わせても、男が洋楽器を鳴らすことは軟弱と思われていた。 ラジオもない時代で、夜店に行くと書生袴をはいたキザな格好の二人組が、ヴァイオリンを弾きながら流行歌を唄い、 その歌詞のパンフレットを売っていた。それを真似て、土蔵の中に隠れて、よく弾いたものである。
   = 橋本宗夫氏(高商13回)談
(船場=大阪商人発祥の地。問屋街として全国に有名であった。裕福な商家の子供は「ぼん・いとさん・こいさん」と呼ばれ、 住居は次第に阪神地区の芦屋などに移った。谷崎潤一郎の小説「細雪」の主人公達の舞台となった)。

☆ 日本でのオーケストラ発足の歴史は次のようなものであった ☆
(明治37年)  (大学名は現在の表示)
1904年:慶応義塾大学ワグネル・ソサイエティ・オーケストラ 〈当初はマンドリン合奏団〉
1908年:学習院大学オルフェウス・オーケストラ
1909年:九州(帝国)大学フィルハーモニー・オーケストラ。
1914年:早稲田大学交響楽団
1915年:神戸大学交響楽団
1916年:関西学院大学交響楽団
1917年:京都(帝国)大学音楽部交響楽団
1925年:JOAK東京放送局開設。日本交響楽協会(日響)設立
1925年:JOBK大阪放送局に大阪フィルハーモニック・オーケストラ設立

* 放送局の開設に伴なうオーケストラの発足に比べると、日本の学生オーケストラは意外と早くから活動を始め、 その果たした役割は、決して小さいものではなかった。
   = 岡野 弁 著・「メッテル先生」より。

☆ 黎 明 期 ☆

この様な時期に練習を重ねた『ワグナー・ソサエティ』は同年12月8日に開催された「第9回語学大会」の アトラクションとして6人のヴァイオリンとピアノの編成で初めて世間にお目見えした。

この大会は毎回《神戸の貴顕(きけん)紳士、特に神戸女学院の令嬢が集まり、神戸のインテリ層でいつも満員の盛況であった》から、 この新しい合奏団に対する期待は一気に高まった。ただ、楽員の楽器経験は1年程度であったので、その実力がどの位であったか定かではないが、 その頃の日本で器楽合奏を行う団体はほとんど無かったので、一応形をなした編成で演奏を行った事は画期的な出来事であったと思われる。

* 大正初期の学校は、いわゆる葺合の村塾で、何の娯楽もなく、学校としての催し物は、 春のボートレース・秋の陸上運動会・年末の語学大会位のものだった。これではあまりに芸がないと思い、同志を集め、 ヴァイオリン・クラブを始めた。が、厳しい稽古に、当初12・3人いたメンバーが次第に脱落し、これではならじと、 語学大会に出演する事とした。学校には、まだピアノがなかったので、当時、隣接していた関学のチャペルのピアノを借りて猛練習した。 曲は簡単なワルツであった。
   = 伊藤 則忠氏(高商11回)談

2年後の大正6年(1917)12月の「第11回語学大会」には「マンドリン・オーケストラ」の名前で出演し、 山中直一氏の編曲・指揮で11名による合奏を行った。山中氏は当時としては稀な楽才の持ち主で、マンドリン・ピアノ・声楽を習得し、 作曲・編曲・指揮まで何でもこなされ、翌年に校歌をテーマに作曲された[神戸高商・大行進曲]は、その後演奏会のたびに演奏された。 残念ながら譜面は残っていないが、コロンビア・レコードに吹き込まれた三越少年音楽隊によるブラスバンドの レコードは現存するとの事である。

* [神戸高商大行進曲]は、幼稚なものであったが、チャイコフスキーの「1812年」序曲を真似て、序奏に次いで、 校歌「商神」と寮歌「大旆」のテーマが曲調を変えて出、最後に「商神」を拡大したフィナーレで終わる行進曲であった。
   = 山中直一氏(高商13回)談

☆ 大 正 年 代 の 活 動 ☆

その後、メンバーを少しずつ増やし、大正7年(1918)に名称を『フイルハーモニック・ソサエティ』と改めて活動を続け、 翌8年には新しく出来た講堂で、[ベートーヴェン=第2交響曲からスケルッオ]。大正9年(1920)9月には「第5回関西英語雄弁大会」で [ヴェルディ=椿姫抜粋]などを演奏した。

大正10年、名ヴァイオリニスト・エルマンが来日、さらに神戸・新開地の聚楽館でロシア・オペラが「カルメン」を上演した 事などをきっかけとして、活動はさらに活発となり、大津や姫路でも演奏会を開いた。姫路での演奏会は有史以来2度目の音楽会で、 大好評を博したようである。

また、それまで所属していたマンドリン部とグリー・クラブが分離独立し、大正11年(1922)2月11日に神戸 YMCA ホールで、 【グランド・コンサート】と銘打って初の単独演奏会を開き[モーツァルト=「ドン・ジョバンニ」序曲]などを演奏した。

その後の2年間の活動については、はっきりしないが、大正14年には管楽器を何とか揃えることが出来たとのことである。

* 部では全く予算がないので、先輩の寄付を求めて奔走したが、予定額に達せず、結局不足分を私の父に出させて、 クラリネット2本・フルート・トランペット・トロンボーンを購入した。
   = 大西武夫氏(高商20回)談

* この当時の演奏曲目は[ヘンデル=ラルゴー、ブラームス=ハンガリア舞曲、ルビンシュタイン=天使の夢、 チャイコフスキー=アンダンテカンタービレ、シューベルト=楽興の時・軍隊行進曲]などで、現在から考えると、 その水準はあまり高くないと思われるかもしれないが、マーラーなど大編成による後期ロマン派の音楽が、 当たり前のように日本で演奏されるようになったのは、たかだか、ここ20年である。

* 大正3年に出来た、宝塚少女歌劇団の初期の演目は[桃太郎]などであり、また、一世を風靡(ふうび)したと言われる 東京・浅草オペラの始まりが大正6年で、その最盛期は大正末期であったことを考えると、『フイルハーモニック・ソサエティ』の曲目は 当時としては革新的で斬新なものであった。

大正年代には、学友会の下に10程のクラブがあったが、文化部に属するものは講演部と語学部だけであり、 最初『フイルハーモニック・ソサエティ』は同好会の形で細々と活動していた。勿論、予算も無く、楽器はすべて私有物であった。 しかし、その後活動が活発となって学内での評価も高まり、大正14年に田中金司教授(金融論)を部長として正式に音楽部として認められ、 年間15円の予算を穫得。以後、学内外に大きく発展する事になった。

* 丁度私が3年半の欧米留学の旅から帰って間もなく、持って帰ったレコードを、家に遊びに来る学生諸君に聴かせて楽しんでいた。 オーケストラ部員は、私をひとかどの音楽愛好家と見誤り、初代顧問になれと言うのである。柄でもないので辞退したが、 懇願に負けて引き受けることになった。
   = 田中金司教授(金融論)談

* 当時は音楽部と言っても、管弦楽団・マンドリンクラブ・グリークラブの3団体でせいぜい、30〜40人。 1人で何役も勤めねばならなかった。こんな状態だから、音楽会の前2週間ばかりはロクに授業を受けられなかった。 管弦楽団も15人ばかりで、コントラバスは音楽会前に毎回、三木楽器から賃貸していた。が、こんな演奏でもヤンヤの喝采を受けた。
   = 角南 浩(高商23回)氏談

☆ 昭 和 (戦前) 年 代 の 活 動 ☆

昭和初頭の大恐慌の時代にもオーケストラ活動は盛んであったが、財政的には苦しく、学友会内部でも不遇であった。 しかし、部員の士気は高く〈我らは音楽に親しむ事によって我ら自らを楽しませるに止まらず、広く一般人をして崇高なる芸術の殿堂に導き入れる〉 気概を持っていた。

昭和2年(1927)夏には、山陽道(尾道・広島・福山など)への演奏旅行を行った。曲目は[シューベルト= 未完成交響曲。 カルメン幻想曲。ブラームス=ハンガリア舞曲・第5番。ボロディーン=中央アジアの草原にて。] などで、最も人気を博したのが[越後獅子]であったのは当時の時代を偲ばせる。

* 演奏旅行に先立って、経費がないのでマネージャーが「必ず倍にして返すから」と団員から10円ずつを徴収して出かけた。 尾道に着くと、オープンカーに楽器を積み込んで、宣伝のための町回り。会場は畳敷きの小学校の講堂。蚊が一杯で壇上に蚊取り線香を林立させ、 瀬戸の夕凪の暑さと共に難行苦行。福山では花輪が立てられる程の大歓迎が忘れられない。が、10円ずつの拠出金は永久に戻ってこなかった。
   = 角南 浩(高商23回)氏談

同年秋には音楽部音楽会を催し、創立以来12年目の充実した年であった。しかし、翌3年には部員の大部分が卒業し、 編成も貧弱になったものの、5月・10月には小編成ながら記念祭・定期音楽会を開催した。

昭和4年(1929)1月、神戸高等商業学校は神戸商業大学に昇格し、学内の音楽活動はさらに盛んになったが、 オーケストラはメンバーと資金の不足に悩まされ続けながら、6月・12月に細々とその活動を続けていた。 大学昇格後初の公開演奏会は、昭和5年12月6日に大学講堂で行われ、数年来見られなかった大聴衆を陶酔させた。

昭和6年(1931)6月27日には、大学講堂に立錐の余地がない六百数十人の聴衆を集め、上野伊太郎氏指揮による 【第1回管弦大演奏会】が行われ[ショパン=雨だれ、シャミナード=セレナード、ブラームス=ハンガリア舞曲・第5番、 パデレフスキー=メヌエット、スッペ=ビックダム]などを演奏して賞賛を博し、続いて12月5日に【第2回管弦演奏会】が開かれた。

* オーケストラの久々の復活は嬉しい。メンバーの中には、未熟な人がいたとは言え「商神マーチ」は丘人の一番聞きたい曲であり、 学生らしい真摯(しんし)さが溢れ、好感を与えた。
   = 学生新聞評。

* 演奏会開催の費用は40円位で、入場料は取らず、大学からの補助20円とプログラムの広告料でまかなった。

* また、この頃の演奏曲目は、前出以外にも[スッペ=「ウィーンの朝昼晩」・「詩人と農夫」、グリーグ=ソルベーグの歌、 モスコフスキー=スパニシュダンス、ボアエルデュー=バクダットの太守、シュトラウス=蒼きドナウ]などであり、また、 部員の募集を行い「楽譜の読めない者でも大歓迎」と呼びかけた。

以後毎年春・秋2回の演奏会が定例となった。また、昭和7年11月にはヴィオラ・コントラバス・トローンボーンなどが購入され、 また JOBK 大阪放送局から[シエラザード、ベートーヴェン・第2交響曲](恐らく、両曲とも抜粋)を放送するまでに成長した。

昭和7年12月の【第5回管弦演奏会】では[モーッアルト=ヴァイオリン協奏曲・第5番、 リムスキーコルサコフ=シエラザード、スッペ=詩人と農夫、ベートーヴェン=第2交響曲よりラルゲット]を演奏。

翌昭和8年(1933)6月の【第7回定期演奏会】では、満員の聴衆を集めて[ベートーヴェン=葬送行進曲・ピアノ協奏曲第1番、 ビゼー=アルルの女]の演奏を行い、プログラムを兼ねた機関誌「The Orchestra」を発行した。7月には JOBK 大阪放送局主催の 関西6大学管弦楽放送コンテストに参加[ベートーヴェン=ピアノ協奏曲・第1番、ハイドン=時計交響曲から]を演奏。

夏休みには旧満州鉄道の招きによって、満州(現中国東北部)ヘ演奏旅行を行い(団員20名余)、 16日間に8回の演奏会・ラジオ放送を行った。同年11月には文部省の統制下の音楽週間・秋期音楽部合同演奏会が、 12月には神戸商大オーケストラの戦前の黄金時代を築き上げた上野伊太郎氏の最後の指揮で【第8回定期演奏会】 が開かれ演目は[モーッアルト=弦楽5重奏、グリーグ=ペールギユント第1組曲、グリンカ=皇帝に捧げる命]などであった。

昭和9年の新入部員は僅か7人でメンバー数は満足出来るものではなかったが活躍は衰えず、6月には【第9回定期演奏会】で [ハイドン=驚愕交響曲、メンデルスゾーン=結婚行進曲]を演奏した。

* 団員に技術的な差はあっても、本当に音楽を愛すると言うことが団員むすびつきを強くしていたと思います。 毎年の卒業と言う事を通じて新陳代謝を繰り返す学生オーケストラは、これを上手く調整して楽しい音楽集団を造り出し、 それを通じてお互いに結びつく事が本当の学生オーケストラの姿だと思います。
   = 吉田正巳氏(商大4回)談

* 私は幼少からピアノを弾いていたが、オーケストラに入って持たされた楽器は、ヴァイオリン・ヴィオラ ・チェロ・コントラバス・オーボエ・クラリネット・ホルン等々でした。が、どれも物にならず、結局指揮棒を持つ事になりました。 この頃の団員数は応援をも含めて35名位でした。
   = 宮地厚三氏(商大5回)談

7月に神戸商大の学舎が上筒井から六甲台に移転し、交通の不便さから練習場をYMCA 或いは愛隣館に、 また【第10回定期演奏会】も海員会館(現シーガルホール。JR神戸駅の東南にある)に移さざるを得なくなった。

昭和10年代は学内全体がやや沈滞ムードであったが、6月19日に行われた【第11回定期演奏会】では 初めて2管編成(ティンパニのみ借り物)が実現し、大好評を博してその地位を不動のものとした。

その頃の商大新聞の紹介によると《楽団は多種多様の高価な楽器と多数の人員を必要とする性質上、いかなる学校・専門的楽団においても、 維持と発展の努力は多くの場合、余り酬いられない状態である。然るに我が楽団は創始以来現在まで、比較的順調な発展を遂げ、今や神戸唯一の、 そして関西有数の管弦楽団として50数名の部員を有し、春秋2回の定期演奏会に続々と大曲を発表して、関西楽団の中枢となりつつある》 と書かれてある。50名の部員の全部が神商大の学生であった訳ではないが、正部員同様の練習をつんだ他校の学生や一般の人々の参加も 大きな力であった。(この伝統は第二次世界大戦後の現在まで続いている貴重な財産である)

昭和10年12月には【第12回定期演奏会】が海員会館で行われ[ベートーヴェン=交響曲第8番・ピアノ協奏曲・第3番、 ビゼー=アルルの女]が演奏された。なお、学友会から支給された年間予算は131円であった。

この頃には神商大オーケストラの演奏会は神戸を賑わす行事となり、昭和11年6月の【第13回定期演奏会】では [モーッアルト=ピアノ協奏曲・第20番]などが演奏されたが、初めて[ラローのチェロ協奏曲]を取り上げた12月の 【第14回定期演奏会】はあまり良い演奏が出来ず、選曲の見直しの声が出た。

* 昭和12年に日中戦争(支那事変)が起こり、「国民精神総動員」の名の下に、〈音楽なんか軟弱〉の一言で片付けられ、 大学からの補助金も削られ、折角勧誘した新入生にも逃げられて、ついに、京大の友人に助けを求め、故・朝比奈 隆氏(のちに、 関西交響楽団・大阪フィルハーモニーの設立者で92歳まで現役を勤めた日本有数の大指揮者。2001年末没)にも、 学生服を着て第一ヴァイオリンを手伝ってもらった。それでも25人程を確保すのが精一杯であった。
   = 西村俊一氏(商大8回)談

日中戦争の勃発とともに社会情勢が変化し、軍隊への徴兵によるメンバーの減少や演奏会を開くことへの非難までも出てきたが、 これにもめげず、練習を重ね、年1回になったものの、12月には【第15回定期演奏会】で[ベートーヴェン=エグモント序曲、 シューベルト=軍隊行進曲]などを演奏。

昭和13年12月の【第16回定期演奏会】では[ベートーヴェン=ピアノ協奏曲・第3番、ハイドン=時計交響曲、 日独防共協定を祝して、山田耕筰=蝶々]を32人のメンバーで演奏した。演奏会はいつも満員の盛況で、阪神間の音楽愛好家、 特に女子の聴衆が多かった。

* その頃の演奏会費用は1回当り約70〜100円で、これを広告代金でまかなっていた。学友会からの予算は音楽部全体で150円。 その大半をオーケストラ部が使っていたが、戦時下となり学友会からの補助が減額されたので、オーケストラは財政難に落ち込むこととなった。

昭和14年には【第17回定期演奏会】に部員42人で[ベートーヴェン=交響曲・第1番、スッペ=序曲、 シュトラウス=ワルツ]など。

昭和15年には、紀元二千六百年祝典のため6月と12月に【第18回定期演奏会】【第19回定期演奏会】が開かれ [モーッアルト=ジュピター交響曲、ベートーヴェン=交響曲・第5番、ピアノ協奏曲、ビゼー=アルルの女、 ボアエルデュー=バクダットの太守]などが演奏された。

* 昭和14年12月発行の「The Orchestra」では、資金不足に悩むオーケストラのために、 先輩達から5円の会費を取って後援会をつくる話が出ているが、実現はしなかったようだ。

この頃から演奏会冒頭に「君が代」、最後に「愛国行進曲」を全員で合唱させられる様になった。 この様に軍国主義に傾いてゆく周囲の環境の変化もあり昭和16年(1941)には名称を『神戸交響管弦楽団』と改め、 同年6月宮城遥拝・「君が代」・黙祷に始まる初の演奏会が開かれたが、世相はさらに厳しくなり、 英語の題字はけしからぬと機関雑誌「The Orchestra」の名称変更も求められ、 昭和17年の合同演奏会に出演したのを最後に活動停止に追い込まれた。

* オーケストラは駄目になったが、せめて楽器だけは、次の時代へ保管して置くことを依頼して私は卒業した。 当時保有していた楽器は、ヴィオラ・チェロ 各1、コントラバス・クラリネット 各2、オーボエ・ファゴット・フルート ・トロンボーン・ホルン 各1でした。
   = 西村俊一氏談

★昭和14年(1939)第二次世界大戦ドイツのポーランド侵攻により始まる★
★昭和16年(1941)12月、日本の対米開戦により太平洋戦争に突入★
★昭和20年(1945)5月ドイツ降伏同年八月、日本敗戦★

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